鵜飼い
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鵜飼い・鵜飼・鵜養(うかい)は、鵜(ウ)を使ってアユを獲る伝統的な漁法のひとつ。岐阜県、愛知県、京都府などで行われているが、特に長良川での鵜飼いが最も有名である。
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[編集] 歴史
鵜飼いの歴史は古く、『日本書紀』神武天皇の条に鵜養部のことが見え、『古事記』にも鵜養のことを歌った歌謡が載っている。また中国の史書『隋書』開皇二十年(600年)の条には、日本を訪れた隋使が見た変わった漁法として紹介されている。
鵜飼漁で獲れる魚には傷がつかず、ウの食道で一瞬にして気絶させるために鮮度が非常に良い。このため、鵜飼鮎は献上品として殊のほか珍重され、安土桃山時代以降は幕府および各地の大名によって鵜飼は保護されていった。鵜匠と漁場の確保は、大名達にとっても面子に関わる一大事であったのである。
しかしながら、鵜飼は決して漁獲効率のよい漁法ではないため、明治維新後に大名等の後援を失った鵜飼は全国から次々と姿を消していき、現在は数えるまでにその規模を縮小している。
現在の鵜飼は、客が屋形船からその様子を見て楽しむというように、漁による直接的な生計の維持というよりはもっぱら観光事業として行われている。例えば、愛媛県大洲市の肱川で行われている鵜飼は、戦後の昭和32年に「大洲観光うかい」として始まったものである。しかしながら鵜飼は同時に、無形文化財の保護という大切な側面も併せ持っている。
[編集] 漁法
鵜飼漁をする人を鵜匠(うしょう・うじょう)と呼ぶ。その装束は風折烏帽子、漁服、胸あて、腰蓑という古式ゆかしいものである。漁に用いるウの数は各地の鵜飼漁の規模や漁法によって異なる。例えば、徒歩鵜では鵜匠ごとに1羽ないし極数羽のウを操るが、小船を用いた一般的な鵜飼においては、1人の鵜匠が5羽から10羽程度のウを一度に操る。漁期はおおむね晩春から初秋にかけてであり、鮎漁の解禁日にあわせて漁が始まることが多い。
鵜飼いでは、平底の小船の舳先でかがり火を焚き、光に集まってきたアユをウに飲ませる。ウののどには紐が巻かれており、ある大きさ以上のアユは完全に飲み込むことができなくなっており、鵜匠はそれを吐き出させて漁獲とする。紐の巻き加減によって漁獲するアユの大きさを決め、それより小さいアユはウの胃に入る。
しかし、鵜飼の鵜にいつものどに紐をまいて漁をしていると鵜はだんだんやる気をなくしていってしまう。そのため、鵜飼の方は鵜にも休暇を与えることがある。(鵜飼と鵜の関係については、鵜でも記述)
鵜飼いに使われるウはウミウであり、和歌山県有田市と島根県益田市を除く全国11ヶ所全ての鵜飼は、茨城県日立市(旧十王町)の伊師浜海岸で捕獲されたウミウを使用している。また、天然記念物として保護されているカワウであるが、愛知・岐阜では大量のカワウによる鮎の食害が深刻化している。
[編集] 御料鵜飼
岐阜県岐阜市および関市の長良川河畔における鵜飼は、宮内庁式部職である鵜匠によって行われている。鵜匠は岐阜市長良に6人、関市小瀬に3人おり、これらは全て世襲制である。長良川の鵜飼では、1人の鵜匠が一度に12羽もの鵜を操りながら漁を行う。
もともと長良川の鵜飼はその起源を1300年ほど前までさかのぼることができ、江戸時代においては徳川幕府および尾張家の庇護のもとに行われていた。明治維新後は一時有栖川宮家御用となるも、1890年に宮内省主猟寮属となり、長良川鵜飼は宮内省(現宮内庁)の直轄となった。すなわち、御料鵜飼とは皇室御用の鵜飼であり、狭義には毎年5月11日から10月15日まで行われる漁のうち特に宮内庁の御料場で行われる8回の漁を指す。御料鵜飼で獲れた鮎は皇居へ献上されるのみならず、明治神宮や伊勢神宮へも奉納される。
[編集] その他の鵜飼漁法
山梨県笛吹市の笛吹川や和歌山県有田市の有田川で行われている鵜飼は、「徒歩鵜(かちう)」と呼ばれるものである。これは小船等を用いず、鵜匠が1羽ないし2羽のウを連れて直接浅瀬に入って漁をする鵜飼である。
島根県益田市の高津川で行われている鵜飼は、全国で唯一の「放し鵜飼」と呼ばれるもので、ウに手綱をつけずに漁を行う。また、この鵜飼はあくまで鵜匠の生計のための漁であり、そのスタンスは他の観光鵜飼とは異なる。乱獲防止のため、漁期は一般の鵜飼が終わる秋ごろから翌初春にかけてである。
[編集] 鵜飼いの行われている地方
- 山梨県笛吹市(笛吹川)
- 岐阜県岐阜市(長良川)
- 岐阜県関市(長良川)
- 愛知県犬山市(木曽川)
- 京都府宇治市(宇治川)
- 京都府京都市(大堰川)
- 和歌山県有田市(有田川)
- 広島県三次市(馬洗川)唯一、胴体の白いカワウを使用する。
- 島根県益田市(高津川)
- 山口県岩国市(錦川)
- 愛媛県大洲市(肱川)
- 大分県日田市(三隈川)
- 福岡県朝倉郡杷木町(筑後川)
[編集] 海外における鵜飼い
[編集] 中国
隋書の書かれた時代には鵜飼いは中国人にとって珍しい漁法だったが、その後中国においても鵜飼い漁法が定着した。
中国における鵜飼いの記録は、一説には杜甫(712年-770年)の詩の一節にまで遡るという。
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- 家家養烏鬼
- 頓頓食黄魚
「家々では鵜を飼い、毎食黄魚を食べる」と訳されるこれが鵜飼いの事であるという。ただし、烏鬼というのが鵜を表すという説には異論も多く、仮に鵜であったとしても黄魚とはチョウザメであるとされていることから、鵜がチョウザメのような巨大な魚を捕れるとは考えにくく、これを鵜飼いの証拠とする説には疑問が持たれている。
確実な記録として最古の物は、10世紀の文人・陶穀が残した『清異録』(965年)において、当塗(安徽省太平府の都市)の漁民が「魚を捕らえるのに非常に機敏な鵜を使う」と記述されているのが最初である。また、11世紀後半の文人・范鎮が残した文章にも、20世紀の中国で行われていたのととほぼ同じ漁法が描かれている。
中国の鵜飼いと日本のそれとの相違点は、以下のような点である。
- 使用される鵜の種類が、日本ではウミウであるのに対し、中国ではカワウを使用する。
- 日本では漁のための鵜は成鳥を捕獲して訓練するが、中国では完全に家畜化されている。
- 魚を飲み込めないように鵜の喉に輪を装着するのは日本も中国も同じだが、中国では日本のように鵜を綱に繋がず、魚を捕らえた鵜は自発的に鵜匠の元に戻ってくる。
- 日本では鵜飼いは様式化して残ったため、捕る魚はほぼアユのみだが、中国では一般漁法として存続しているため、鵜が捕れるサイズのありとあらゆる魚を捕る。
[編集] ヨーロッパ
16世紀末から17世紀初めにかけての一時期、ヨーロッパでも鵜飼いがスポーツとして、主にイギリスとフランスの宮廷を中心として広まった。1609年、皇太子だったルイ13世の前で鵜飼いが実演され、1618年にはジェームズ1世が飼っているウ・ミサゴ・カワウソ(いずれも漁用動物)のための飼育小屋と池をウェストミンスターに作ろうとした記録が残っている。
ただし、一概に言えることは、これらの鵜飼いは日本や中国から漁法のノウハウを受け継いだものではなく、鷹狩りの手法の延長で行われたということである。鵜は目隠しをされたまま漁場に連れてこられ、漁の時だけ目隠しを外された。鵜の運搬は革手袋をつけた飼い主の手の上に乗せて行われた。ヨーロッパの鵜飼いはあくまで貴族の物だったのである。
[編集] 参考文献
- 可児弘明著『鵜飼――よみがえる民俗と伝承』中央公論新社[中公新書]。ISBN 4121701097
- ベルトルト・ラウファー著 『鵜飼 中国と日本』博品社 1996 ISBN 4-938706-29-6
[編集] 外部リンク
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