都筑郡
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都筑郡(つつきぐん、つづきぐん)は武蔵国・神奈川県にかつて存在した郡である。
その範囲は概ね多摩丘陵東南部の地域であり、現在は横浜市緑区、青葉区、都筑区の全域、および旭区、保土ケ谷区、港北区、川崎市麻生区の各一部になっている。
目次 |
[編集] 歴史
郡名は、古くから当地域が「つつき」と呼ばれており、その読みに字を当てた「都筑」が 8世紀頃に確定したと考えられている。なお、地名「つつき」の読みの由来については史料が残っておらず定説はない。
[編集] 有史以前
[編集] 古代
- 長者原遺跡(現在の横浜市青葉区荏田西)に郡衙が置かれたと推定されている。
- 当時の史料「和名類聚抄」(平安時代中期の編纂)には、「余部(あまるべ)、店屋(まちや)、駅家(えきや)、立野(たての)、針(は)ざく、高幡(たかはた)、幡屋(はたや)」の 7つの郷(地名)が収録されている。うち幡屋郷と呼ばれる地域(現在の二俣川付近)は、後の帷子(かたびら)宿・程ヶ谷宿(橘樹郡)の前身になったと言われる。
- 足柄道(後の矢倉沢往還・大山街道)、中原街道が利用されはじめる。
[編集] 中世
- 茅ヶ崎城(現在の横浜市都筑区)が築かれる。
- 小田原北条氏による所領の記録「小田原衆所領役帳」に、星川(都筑郡・橘樹郡、かつては久良岐郡に属していたとも言われる)、仏向(橘樹郡)、保土ケ谷(同)、川島(都筑郡)、今井(同)の地名が記載されており、この当時の当郡の一部は北条領であったと推定されている。
[編集] 近世
- 東海道が整備されるまでは、江戸から平塚宿に至る中原街道が主に利用されたと言われる。東海道整備以降は脇往還として利用され、佐江戸宿(旧名「西土」、現在の横浜市都筑区佐江戸)が置かれる。
- 足柄道に沿って矢倉沢往還(大山街道)が整備され、荏田宿(現在の横浜市青葉区)、長津田宿(現在の横浜市緑区)が置かれ、沿道が大山参詣者などで賑わう。
- 多摩丘陵の谷戸地形を利用した農業が盛んで、旧柿生村・岡上村付近一帯で産した「黒川炭」「禅寺丸柿」などが江戸へ流通する。
[編集] 近代
詳細な行政区画の変遷については明治以降の行政区画を参照。
- 神奈川県(神奈川府)が設置され、当郡はその下に置かれる。
- 横浜水道が開設される。
- 都筑郡役所が都岡村、後に川和村に置かれる。
- 明治30年代
- 1927(昭和 2)年 4月1日
- 神中鉄道が横浜まで全通。
- 1939(昭和14)年 4月1日
- 全町村が横浜市・川崎市の一部となり、都筑郡消滅。
[編集] 明治以降の行政区画
- 1927(昭和2)年 4月1日
- 1934(昭和9)年 4月1日
- 1939(昭和14)年 4月1日
- 都岡村・二俣川村・新治村・田奈村・中里村・山内村・川和町・中川村・新田村が横浜市に編入。(都筑郡消滅)
- 以降、都岡村・二俣川村の地域は保土ケ谷区に、残部は新設の港北区の一部となる。
- 都筑郡廃止後、川和の郡役所跡には横浜市港北区役所川和支所(1969年より緑区役所)が置かれ、1970年代前半まで地域の中心として機能する。
- 1969(昭和44)年 4月1日
- 保土ケ谷区と港北区が再編成される。
- 1995(平成 6)年 11月6日
- 港北区と緑区が再編成される。
- 1939(昭和14)年 4月1日
- 柿生村、岡上村が川崎市に編入。(都筑郡消滅)
- 1972(昭和47)年 4月1日
- 1982(昭和57)年 7月1日
- 多摩区のうち旧都筑郡全域(旧柿生村、岡上村)および旧橘樹郡生田村の一部が分区し麻生区となる。
[編集] 隣接郡
※久良岐郡および高座郡は隣接しないが近接するため併記する。