請西藩
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請西藩(じょうざいはん)は、江戸時代の藩のひとつ。上総国望陀郡請西村(もうだぐんじょうざいむら、現在の千葉県木更津市)に陣屋を置いていたため、この名で呼ばれる。なお、当初は望陀郡貝淵村(現在の千葉県木更津市)に陣屋が置かれていたために貝淵藩(かいふちはん)と呼ばれていた。石高は1万石。
また、明治維新後に設置された桜井藩(さくらいはん、名義上は望陀郡桜井村)も実質は貝淵藩と同一(陣屋が旧貝淵藩陣屋の転用)とみなすことが出来るために同藩についても併せて解説する。
ちなみに貝淵・桜井・請西村は隣接関係にあり、貝淵(桜井)陣屋は貝淵・桜井両村の境界線に沿った貝淵村側にあり、藩士の邸宅は3村内に点在していたようである。
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[編集] 貝淵藩
藩主の林家は小笠原氏の支流を称し、松平親氏の代から松平氏に仕えた三河譜代の家柄である。代々番方を勤める旗本で、少しずつ加増を受けて林忠和のときに3000石を知行するようになった。その後、林家は忠勝・忠久・忠篤・忠英と続く。
天明7年(1787年)4月に徳川家斉が11代将軍になると、林忠英は小姓として仕え、家斉の寵臣となった。寛政8年(1796年)に家督を継いだ忠英は、小姓番組頭格・御用取次見習・側御用取次などと栄進し、加増を重ねて文政5年(1822年)までには7000石を知行するようになっていた。
そして、文政8年(1825年)4月に若年寄に就任し、3000石の加増を受け、合計1万石の大名に列し、「貝淵藩」が成立した。忠英は天保5年(1834年)12月にさらに3000石を加増される。その後、江戸城修築などの功績を賞されて天保10年(1839年)3月に5000石を加増され、合計1万8000石の大名となった。しかし忠英の権勢はあくまで家斉存命中のことであり、家斉が天保12年(1841年)1月に死去すると、徳川家慶と水野忠邦の粛清を受けて4月に忠英は加増分である8000石を没収された上、若年寄も罷免されてしまった。さらに同年7月には強制隠居まで命じられて、忠英は家督を次男の林忠旭に譲ることを余儀なくされた。
さらに、天保14年(1843年)6月には、天保の改革の一環として行われた印旛沼堀割普請の手伝普請を命じられた。家斉没後に8000石もの加増地を失った藩の財政は、さらに逼迫することになった。
[編集] 請西藩
嘉永3年(1850年)11月、忠旭は陣屋を上総国望陀郡請西村に移す。以後、同藩は「請西藩」と呼ばれるようになる。
第3代藩主の忠交(ただかた)は伏見奉行在任中の1867年に若くして急死し、嫡男の忠弘(ただひろ)がまだ若年だったため、忠交の甥にあたる忠崇(ただたか)が第4代藩主となった。忠崇は人一倍徳川家への忠義の念が強く、大政奉還後も徳川慶喜を罪人扱いする明治新政府に怒りを覚えていた。
1868年に旗本・御家人の次男以下からなる遊撃隊が上総に上陸すると、忠崇は遊撃隊とともに行動することを決意し、藩主自ら脱藩して、藩士とともに遊撃隊に合流した。その後、房総で兵を集めた忠崇は相模に入って新政府の東征軍と抗戦したが敗れ、忠崇は榎本武揚の艦隊の運輸船で、小名浜港(現在の福島県いわき市)まで運んでもらい、以後、東北各地で転戦した。このような忠崇の行動は、明治新政府の怒りをかい、1868年、請西藩は取り潰しとなった。請西藩は、戊辰戦争によって明治新政府に取り潰された唯一の藩である。
[編集] 明治維新後の林家
忠崇は、徳川家が駿府70万石の大名として存続されることが決定したことを知ると、仙台で新政府軍に降伏して、江戸唐津藩邸に幽閉される。1869年、林家は林忠弘が相続して、300石の東京府士族として復活した。また、忠崇も1872年に赦免されたが、その後は家禄の削減・廃止もあって忠弘・忠崇ともに一介の士族として職を転々として困窮した生活を送った。
1889年、大日本帝国憲法発布にともなう大赦によって、西郷隆盛の復権が決定すると、請西藩の旧藩士たちが林家の復権運動を起こした。1893年、旧藩士たちの運動が実って、政府は林忠弘を華族に叙し、忠崇も忠弘の家族として無爵華族(爵位を持たない華族)に叙された。なお、旧大名は最低でも子爵を与えられていたが、林家に与えられた爵位は一段低い男爵であった。
なお、忠崇は1941年に94歳で病死するまで生き、実在する「最後の大名」となった。
[編集] 桜井藩
明治元年(1868年)7月13日、駿河国小島藩から1万石で松平信敏が上総国に移ってきたことから、桜井藩が立藩した。ただし最初は上総国周准郡南子安村に陣屋を置いていた。しかしこの地の交通が不便であったため、信敏は翌年3月に陣屋を桜井に移したとされている。だが、桜井藩の陣屋は実はかつての貝淵藩時代の陣屋と全く同一であった。この背景には貝淵藩(請西藩)が朝敵として改易された経緯から「貝淵藩」の名称を避けて隣村の名前を取って「桜井藩」と名乗ったのが実情のようである。信敏は藩内における治水工事に尽力した。明治4年(1871年)の廃藩置県により、桜井藩は廃藩となって桜井県となり、同年11月には合併によって木更津県が成立して県庁が貝淵陣屋(桜井陣屋)に設置された。後に同県は印旛県と合併して千葉県となった。
[編集] 歴代藩主
[編集] 貝淵・請西藩
林(はやし)家
譜代 1万石→1万3000石→1万8000石→1万石(1825年-1868年)
[編集] 桜井藩
松平(滝脇)(まつだいら(たきわき))家
譜代 1万石(1868年-1872年)
- 信敏(のぶとし)〔丹後守〕
[編集] 参考文献
中村彰彦『脱藩大名の戊辰戦争』2000年、中公新書。ISBN 4121015541