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第1回十字軍 - Wikipedia

第1回十字軍

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

中世の写本に描かれた第1回十字軍のエルサレム攻撃
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中世の写本に描かれた第1回十字軍のエルサレム攻撃

第1回十字軍(だいいっかいじゅうじぐん 1096年-1099年)は1095年ローマ教皇ウルバヌス2世の呼びかけにより、キリスト教の聖地エルサレムの回復のために始められた軍事行動。クレルモンにおける教会会議の最後に行われた聖地回復支援の短い呼びかけが、当時の民衆の宗教意識の高まりとあいまって西欧の国々を巻き込む一大運動へと発展した。

十字軍運動においては、一般に考えられているような騎士たちだけではなく一般民衆もエルサレムへ向かった。彼らは戦闘の末にイスラム教徒を破って、同地を1099年7月15日に占領した。そこで、エルサレム王国など「十字軍国家」とよばれる一群の国家群がパレスティナに出現した。西欧諸国がはじめて連携して共通の目標に取り組んだという点で、十字軍運動は欧州史における一大ターニングポイントとなった。そしていわゆる「十字軍」を名乗った運動で当初の目的を達成することができたのは、この第1回十字軍が最初で最後となる。

目次

[編集] 歴史的背景

十字軍運動を理解するためには、まず中世初期の西欧の状況を理解する必要がある。カロリング朝の分裂後、ヴァイキングマジャル人がキリスト教化されたことで西ヨーロッパのローマ・カトリック教圏はようやくの安定をみた。ところが争いがなくなると今度は戦闘によって生計を立てていた人々が手持ち無沙汰になり、お互いに私闘を繰り返したり、農民の生活を脅かすようになった。

やがてこのエネルギーが非キリスト教徒に向けられることになる。スペインで行われていたレコンキスタはその代表的な動きである。手持ち無沙汰だった騎士や傭兵たちはイスラム教徒との戦闘という共通の目的を見出した。ノルマン人とイスラム教徒がシチリア島の支配をめぐって争い、ピサジェノヴァアラゴンといった国々はマジョルカ島サルディニア島でイスラム教徒と争い、イタリアやスペインの沿岸地域からイスラム教徒を駆逐した。

このように十字軍運動が始まるはるか前から、西欧諸国とイスラム教徒の戦いはすでに始まっていたのである。地中海におけるイスラム教徒との争いの中で、キリスト教カトリック信徒の中に、キリスト自身が歩いた聖地エルサレムの奪回という新たな目標が芽生え始めていた。1074年、教皇グレゴリウス7世は「キリストの騎士たち」に向かい、イスラム教徒の猛威に脅かされていたビザンティン帝国(東ローマ帝国)への支援を訴えた。ビザンティン帝国救援という呼びかけ自体は西欧の人々を動かすことはなかったが、11世紀に入ってキリスト教徒の間でエルサレムへの巡礼が流行していたこともあいまって、西欧の人々ははるか東方へ目を向けるようになった。

このような流れの中で、教皇ウルバヌス2世が訴えたエルサレム奪回という目標は、軍人に限らず西欧諸国の広汎な人々の熱狂を呼び起こすこととなった。それは数百年来、鬱屈していた軍事的エネルギーが宗教的情熱と結びついて燃え上がった瞬間であった。

[編集] 11世紀後半の中近東情勢

西欧諸国とイスラム諸国の間にはビザンティン帝国が存在していた。ビザンティン帝国はキリスト教国ではあったが、東方正教会という別の宗派に属し、カトリック教会と北地中海沿岸の旧ローマ帝国支配域を大きく二分していた。皇帝アレクシオス1世コムネノスのもとで帝国は西にヨーロッパと隣接し、東にイスラム教国家と接していた。さらに北からはノルマン人の圧迫も受けていた。アレクシオス1世はイスラム教徒に奪われた古来からの領土小アジアアナトリア半島)の奪還を悲願としていた。

当時のイスラム諸国はそれほど緊密に連携していなかったことが第1回十字軍の行動を容易にすることになる。アナトリア半島シリアは、中央アジアイラン高原からメソポタミア地方にかけてを本拠地とし、スンニ派を信奉するセルジューク朝によって治められていた。セルジューク朝もかつては大帝国であったが、この時代は小国家のゆるやかな連合体になっていた。かつてセルジューク朝を統合して最盛期を現出したスルタン、アルプ・アルスラーンは1071年にビザンティン帝国軍を破ってアナトリア半島を支配下におさめたが、1092年に次代スルタンのマリク・シャーが亡くなると、セルジューク朝は内紛続きで事実上の分裂状態になっており、セルジューク系の各地方君主たちは互いに疑心暗鬼となり相手の隙につけこんでは戦う有様だった。アナトリア方面はセルジューク朝の本家ではなく、分家のルーム・セルジューク朝の統治下にあり、シリアを統治するセルジューク朝分家のシリア・セルジューク朝は跡を継いだ兄弟の間で深刻な分裂状態にあった。

名義上はセルジューク朝の版図の一地方でありながら、実質的にセルジューク家の一族によってばらばらに支配されていたのが北部メソポタミアとパレスティナ地方であった。一方、パレスティナの一部はエジプトを主な領土とするシーア派のファーティマ朝が統治していた。ファーティマ朝は台頭してきたセルジューク朝にシリアとパレスチナを奪われて以来争いを繰り返しており、中近東情勢に詳しくファーティマ朝とも対セルジュークの件で緊密な連絡を取っていたアレクシオス皇帝は、十字軍にエルサレム攻撃にあたってファーティマ朝と手を組むよう勧めていた。

ムスタアリーに率いられていたファーティマ朝はセルジューク朝によって1076年にエルサレムを奪い取られ、十字軍到来寸前の1098年にようやく取り戻したばかりであった。ファーティマ朝の宮廷ではエルサレム占領を目指すという十字軍の意図に気づかず、エルサレムに到着する寸前までセルジューク朝そのものを攻撃に来るものとばかり考えていた。

[編集] 十字軍運動への歴史的経緯

[編集] クレルモン教会会議

1095年3月アレクシオス1世はピアチェンツァの教会会議に特使を派遣、時の教皇ウルバヌス2世に対セルジューク朝戦への援助を求めた。ウルバヌス2世はこれを快く受け入れた。カトリック教会の側ではつねに東方正教会との和解を望んでおり、教皇は今こそ東方正教会との不幸な決裂を乗り越え、再合同の好機がおとずれたと考えた。

1095年11月にフランスのクレルモンで行われた教会会議で、教皇は重大発表を行うと宣言した。発表の日、居合わせたフランスの貴族たちと聖職者に向かって教皇はイスラム教徒の手から聖地エルサレムの管理権を奪回しようと訴えた。彼は、人口が増えすぎたフランス人にとって聖地こそがまさに「乳と蜜の流れる土地」であると訴え、この行動に参加するものには地上において天において報いが与えられること、もし軍事行動の中で命を落としても免償が与えられることを告げた。この呼びかけに居合わせた群集の熱気は高まり、「神のみむねのままに!」という叫びがこだました。

ウルバヌス2世の十字軍勧誘説教はヨーロッパの歴史に残る名演説の一つであるといわれるが、第1回十字軍の成功後に記録がかかれたため、実際にどんなことを教皇が言ったのか、現代のわれわれが知ることは難しい。ただ一つ間違いないことは教皇の訴えが群集の熱狂を引き起こし、教皇の意図をうわまわる規模の反響が起こったということである。教皇は1095年から1096年にかけてフランス、イタリア、ドイツといった各地の司教に同じような内容の呼びかけを行わせた。

その際、この行動には女性、修道士、病気のものは参加することはできないと付け加えていたが、すでに人々の熱狂が高まりすぎて聞き入れられなかった。この呼びかけを聞いて熱狂したのは騎士階級の人々よりも、農民や庶民が多かった。彼らはエルサレムへ赴くだけの経済的余裕も戦闘技術もなかったが、宗教的情熱に身をこがし、日常の抑圧から逃れたいと考えていたため、そんなことは問題ではなかった。教会の指導者や領主たちがどれだけ厳しく禁じても情熱的な庶民たちが聖地へ向かうことはとめることができなかった。

[編集] 民衆十字軍

ウルバヌス2世の考えた十字軍計画では軍隊の出発は1096年8月15日を期していた。しかしそれより数ヶ月前に教皇の計画に入っていなかったグループ、すなわち農民たちや貧しい下級騎士たちが勝手に集まってエルサレム目指して出発してしまっていた。彼らはアミアンのピエールなる自称修道士(隠者ピエール)を指導者とあおいで聖地を目指した。大した人数は集まるまいという大方の予想を裏切り、このグループはなんと10万人という規模に膨れ上がっていた。しかし、その多くは戦闘技術などまったく知らない人々であり、子供や女性も多く含まれていた。これを「民衆十字軍」という。十字軍とはいっても彼らの多くは別に戦闘を望んでいたわけではなく、巡礼というくらいの気持ちで参加していたのが実情であった。

民衆十字軍は人数のみ多く、まったく統制がとれていなかった。さらに(東欧出身の人々が多かったと推測されているが)参加者は独自の生活習慣に従っていたため、聖地にたどり着く前のヨーロッパの国を移動している時点でトラブルが頻発した。彼らはたどりついた町々で食料や水、各種の物資を得ようとした。無料ではなくとも、低価格で必需品を購入できるものと考えていた。しかし、突如あらわれた民衆の群れに、町の人々がいつも温かな対応を見せるとは限らなかった。これが原因となって民衆十字軍と滞在先の人々はしばしばいさかいを起こした。

ドナウ川にそって南を目指した民衆十字軍の一行だったが、一部のものがハンガリー領内で略奪行動を行ったため、ハンガリー兵の攻撃を受けた。同じことがブルガリアやビザンティン帝国領内でも繰り返された。これによって参加者の四分の一にものぼる人々が殺害された。生き残った人々は8月にコンスタンティノープルにたどりついた。しかし、人々がコンスタンティノープルにたどりついたという感慨にふけっていられたのもわずかの間だった。突如あらわれた大人数の外国人集団に、コンスタンティノープルの市民との間の緊張が高まったからである。当時、コンスタンティノープルにはフランスやイタリアからの正規の軍団も集結しつつあったため、皇帝アレクシオスは厄払いとばかりに民衆十字軍の一行を首都から追い出して小アジアへ送り出した。

小アジアを移動している間に民衆十字軍はついに仲間割れを起こして小グループに分裂した。民衆十字軍はまもなくルーム・セルジューク朝領内に入ってギリシア人の農村を略奪しながら首都ニカイアを目指したが、クルチ・アルスラーン1世率いるルーム・セルジューク朝軍精鋭のテュルク系騎兵部隊の包囲と攻撃を受けて、飢えと乾きに苦しみなすすべもなくほとんどが殺害され、女子供は奴隷として売られてしまった。隠者ピエールは生き残ってヨーロッパに戻り、第1回十字軍の本隊に参加している。

[編集] 反ユダヤ主義との結びつき

十字軍運動の盛り上がりは反ユダヤ主義の高まりという側面をもたらすことにもなった。ヨーロッパでは古代以来、反ユダヤ人感情が存在していたが、十字軍運動が起こった時期に初めてユダヤ人共同体に対する組織的な暴力行為が行われた。1096年の夏、ゴットシャルク、フォルクマーなどといった説教師に率いられた1万人のドイツ人たちはライン川周辺のヴォルムスマインツでユダヤ人の虐殺を行った。この事件を「最初のホロコースト」というものもある。

十字軍運動に参加した人々の中のあるものは言葉たくみに、ユダヤ人とイスラム教徒はみなキリストの敵であるといい、敵はキリスト教に改宗させるか、剣を取って戦うかしなければならないと訴えた。聴衆にとって「戦う」というのは相手を死に至らしめることと同義であった。キリスト教徒対異教徒という構図が出来上がると、一部の人々の目に身近な異教徒であるユダヤ人の存在が映った。なぜ異教徒を倒すためにわざわざ遠方に赴かなければならないのか、ここに異教徒がいるではないか、しかもキリストを十字架につけたユダヤ人たちが、というのが彼らの考えであった。

ユダヤ人を求めてドイツ人たちはライン川をさかのぼり、大きなユダヤ人共同体のあったケルンを目指した。そこでユダヤ人たちにキリスト教に改宗するか、ユダヤ教徒のまま死ぬかの二者択一を迫った。ユダヤ人の多くは改宗の屈辱よりは誇りある死を選んだ。虐殺のニュースはすぐに各地のユダヤ人共同体に伝わった。狂気の群集がユダヤ人共同体に近づくと恐怖のあまり自ら死を選ぶものもあった。

ここで気をつけなければならないのは、指導者や聖職者たちがユダヤ人虐殺をあおったようにとらえるのは誤りだということである。実際には町や村の指導者たちはユダヤ人をかくまい、聖職者はユダヤ人への迫害を禁止しており、迫害の実行は民衆レベルで行われた。教皇庁もヨーロッパに住むユダヤ人やイスラム教徒への迫害を再三禁止しているが、ユダヤ人への迫害は十字軍運動の盛り上がりのたびに繰り返されることになる。

[編集] 諸侯による十字軍活動

十字軍運動の盛り上がりの中で、民衆十字軍が壊滅し、ユダヤ人への迫害が行われたが、そのあとに続いたのは1096年にヨーロッパを出発した貴族や諸侯たちによる軍事行動である。このグループがいわゆる十字軍の本隊であり、西欧各地の多数の諸侯が集まって聖地を目指した。諸侯たちの中で特に主導的な役割をはたすことになったのは、教皇使節であったル・ピュイのアデマール司教、南フランスの諸侯のまとめ役だったトゥールーズレーモン4世(レーモン・ド・サン・ジル)、南イタリアのノルマン人のまとめ役をつとめたボエモンの三人であった。ほかにもゴドフロワ・ド・ブイヨン、ブローニュ伯ユースタシュ、ボードワンの三人兄弟、フランドルのロベール2世、ノルマンディー公ロベール、ブロア伯エティエンヌ、フランス王フィリップ1世の弟ユーグ・ド・ヴェルマンドワ(フィリップ1世は破門されていたため参加できなかった)などそうそうたる顔ぶれがそろっていた。

第1回十字軍時代のヨーロッパ・中東地域
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第1回十字軍時代のヨーロッパ・中東地域

[編集] 東方への進軍

諸侯と騎士からなる十字軍本隊は計画通りに1096年8月にヨーロッパを各自出発し、12月にコンスタンティノープルの城壁外に集結した。それは民衆十字軍壊滅の二ヶ月後のことであった。この本隊にも騎士だけでなく、必要な装備にも事欠く多くの一般市民が付きしたがっていた。民衆十字軍の壊滅から生還した隠者ピエールも民衆十字軍の生き残りの人々と共にこの本隊に合流したが、再び一般市民たちの統率者に祭り上げられた。市民たちは小グループに編成しなおされて行動した。

十字軍将兵はなんとかコンスタンティノープルにたどりついた。すでに食料が乏しかったが、呼びかけ人の皇帝アレクシオス1世から食料が提供されるものと考えていた。しかしアレクシオス1世はまったく統制のとれていない民衆十字軍を見ていたことや、軍勢の中にかつての宿敵であった(ビザンティン領だった南イタリアを奪った)ノルマン人のボエモンがいたことから猜疑心を抱き、指導者たちに向かって、食料を提供する代わりに、自分に臣下として忠誠の誓いを立て、さらに占領した土地はすべてビザンティン帝国に引き渡すことを誓うよう求めた。食料にとぼしかった指導者たちに、これを断る選択肢は残されていなかったが、十字軍指導者たちと皇帝の間でギリギリの駆け引きが続けられ、武器を取っての小競り合いにまでいたったが、なんとか双方が妥協にいたった。

アレクシオスから小アジアを案内する部隊を提供され、十字軍将兵は最初の目標としていた都市ニカイアにたどりついた。ニカイアはかつてはビザンティン帝国の都市で住民のほとんどはギリシア人であったが、ルーム・セルジューク朝の手におち、その首都となっていた。十字軍は協議の上でニカイアの攻囲を開始。力攻めを避け、水源を封鎖して兵糧攻めを行うことにした。クルチ・アルスラーン1世はアナトリア高原のアンカラ近郊マラティヤで、当地のセルジューク系の王、賢者ダニシュメンドと戦っていたが、重武装の大軍が首都を包囲していると聞きあわてて引き返し戦うものの多大な損害を出し、これ以上この強力な軍団と戦えばルーム・セルジューク朝自体が危機に陥ると考え、城内に立て篭もるギリシア人住民やテュルク系守備隊にビザンティン帝国への降伏を薦め、内陸深くのコンヤ(イコニウム)に退却することを決めた。この状況を伝え聞いたアレクシオス1世は、十字軍がニカイアを陥落させた場合は略奪を行うに違いないと考え、ひそかに使者を派遣してニカイアの指導者に降伏するよう交渉を行った。守備隊は説得され、住民らは夜ひそかにビザンティン兵を城に入れた。

1097年7月19日の朝、街を囲んでいた十字軍将兵は目覚めて仰天した。城壁にビザンティン帝国の旗がひるがえっていたからである。それだけでなくアレクシオスの指示で十字軍将兵は城内に入ることが許されなかった。十字軍将兵たちがアレクシオスに裏切られる形になったこの事件は十字軍とビザンティン帝国の関係に修復できないほどの亀裂をもたらした。お互いの不信感が決定的になったのである。十字軍はニカイアを離れ、一路エルサレムを目指した。ビザンティン帝国軍は十字軍の道案内をしながら彼らの助けを借りて小アジアの西半分の領土をセルジュークから回復していった。一方、クルチ・アルスラーン1世はコンヤで軍勢を立て直し、セルジュークの諸王に救援とジハードを呼びかけた。

十字軍諸隊は案内役のビザンティン帝国将軍タティキオスの兵に伴われてコンヤへ向かう途中ドリュラエウムにいたが、その道中ボエモンの部隊がクルチ・アルスラーン1世とダニシュメンドの連合軍の急襲を受けた。他の部隊はボエモンを救出し、ドリュラエウムでトルコ軍との戦闘状態に入った。これをドリュラエウムの戦いという。この戦いにおいてゴドフロワ・ド・ブイヨンはトルコ軍の包囲を受けて窮地に陥ったが、教皇使節アデマールが軍勢を率いて救援に駆けつけたため救われた。トルコ軍は十字軍の騎士たちの分厚い甲冑に対して伝来の弓矢戦法を生かすことができず、次々現れる援軍の前に、逃げおおせることのできた騎兵を除いて壊滅した。アデマールがトルコ軍を撃退したことで十字軍はアンティオキア目指して小アジアを進めるようになった。

小アジア進軍は十字軍将兵にとって苦痛に満ちたものとなった。夏の暑さと水や食料の不足から多くの兵がたおれ、軍馬も失った。彼らはアナトリア横断に百日もかけてしまった。小アジアで暮らすキリスト教徒たちが時折、十字軍将兵に食料や金銭の援助をしたが、十字軍は略奪によって物資を得ることが多かった。十字軍全体の指揮を誰がとるのかということに関しては結論がでることはなかった。全体の統率ができるほど強力な指導者がいなかったためであるが、全体の中ではレーモン・ド・サン・ジルとアデマールが指導者的地位を認められていた。

アルメニア人諸侯が治めるキリキア地方を通過したところで、ブルゴーニュ伯ボードワンは手勢を率いて十字軍と別れ、ユーフラテス川沿いを北に進んでアルメニア人の多く住む上流部(現在のシリア北部からトルコ南東部の地方)へ向かった。1098年、エデッサ(現在のトルコ領ウルファ)にたどりついたボードワンは統治者ソロスに自らを養子、後継者と認めさせることに成功した。ソロスはギリシャ正教徒の統治者であったため、アルメニア正教を奉ずるアルメニア民衆からは嫌悪されていた。市民の暴動によってソロスが命を落とすと、ボードワンはエデッサの統治者の座に着き、ここに最初の十字軍国家であるエデッサ伯国が成立した。

[編集] アンティオキア包囲

アンティオキアの城壁と背後の山
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アンティオキアの城壁と背後の山

十字軍本隊は1097年10月、コンスタンティノープルとエルサレムの中間点にあたる都市アンティオキアに到着し、これを包囲した。アンティオキアは無数の監視塔のある堅固な城壁をもち、西はオロンテス川、東は徐々に山を形成する攻略困難な地形で、頂上には砦を持ち、落とすに難く守るに容易い都市であった。アンティオキアの周囲を全て包囲できるほどの軍勢がなかったため、都市に対する補給を許すことになり、包囲戦は八ヶ月の長きに及んだ。アンティオキアの包囲が長引き、十字軍将兵が地震と大雨におびえ、飢餓に苦しみ人肉食まで行う中で、ボエモンはアンティオキアを自らのものにしたいという意志を隠すこともなく公言するようになった。

領主ヤギ・シヤーンと息子シャムス・アル・ダウラは果敢な突撃を繰り返し都市を守り抜いたが包囲されたままの状態は打開できなかった。助けを求められる近隣の王は、シリア・セルジューク朝を分裂させて戦う二人の年若い兄弟のマリク(王)、北シリアのアレッポのリドワーンと南シリアのダマスカスのドゥカークしかいない。どちらも頼りにできる人物ではなく、二人とも一致協力して戦う気もなかった。領主の求めに二人は別々に軍を出しどちらも損害を出して逃げ帰ってしまう。

1098年5月、モースル(現在のイラク北部)のアタベク、ケルボガ(カルブーカ)がヤギ・シヤーンの頼みに応じ大軍を率いアンティオキア救援に出発した。しかし、途中でエデッサへ十字軍攻撃に立ち寄ってみたりと一向にアンティオキアに着かず、アンティオキア側にも焦りが出た。一方、敵に援軍が来ることを察知したボエモンは、モースル軍が到着して数で圧倒されるより前に陥落を急ごうと、アルメニア人衛兵を買収して城門を開かせることに成功した。6月3日、十字軍部隊はついに城内に突入し、火を放ち多数の市民を殺害した。領主ヤギ・シヤーンは城からの逃走中に倒れて死に、息子シャムスがなおも山頂の砦に立て篭もって戦った。十字軍将兵が勝利に酔ったのもつかの間、数日後にはやっとアンティオキアに到着したケルボガらの援軍に逆に包囲され、城内から出られなくなってしまった。(もっとも、援軍は士気が低く、これは途中で軍を合流させたダマスカス王ドゥカークが、ケルボガがアンティオキア解放後にシリアで大きな顔をすることを恐れて、ケルボガの兵隊に彼の悪口を流しためであった。)

このとき、十字軍に参加していた一人の無名の修道士ペトルス・バルトロメオなる男が三日間の断食苦行によって、地下から十字架上のキリストを刺し貫いたという聖槍を発見したと言い出した。教皇使節アデマールなどのように笑止千万な話だと考えていたものがいた一方で、多くの将兵はこれこそイスラム教徒に対する勝利の前触れだと確信した。このことが影響したのか、十字軍将兵の士気は高まり、7月28日に城外にうって出た。ケルボガは城門を出る兵を個別撃破するチャンスを、後続の兵がまた城内に戻ってしまうとあえて避け、十字軍全軍が出たあとムスリム連合の大軍で一気に片をつけようとした。しかしダマスカス王ドゥカークらは相手が多すぎると次々に逃亡し連合軍は崩壊した。当ての外れたケルボガが戦わず退却するところを十字軍は逃さず、撃破し潰走させ大勝利を収めた。

この戦いで二つのことが明らかになった。一つはシリアに十字軍を相手にできるムスリム勢力はもはや存在しない、もう一つはエデッサとアンティオキアの占領で十字軍の領土欲が満たされ、宗教的な情熱をもつ諸侯や大多数の庶民・騎士をのぞき、諸侯らの一部がエルサレムへの関心を見失い始めたことだった。

ここにきてボエモンは、皇帝アレクシオスが十字軍部隊に何の援助もせず見捨てているため、(占領した都市はすべて皇帝に引き渡すという)誓いは無効であると主張しはじめた。ボエモンはその主張によってアンティオキアをわがものにしようとしていたのである。十字軍の指導者たちはこのボエモンの主張に関して紛糾し、進軍はストップした。さらにそこで疫病(おそらくチフス)の流行が軍勢を襲い、多くの兵や馬が命を落とした。疫病の犠牲者の中には教皇使節アデマールも含まれていた。軍勢は統一した指揮系統を失ってシリアで行き場を失い、住民たちも食料の提供を拒んだ。1098年の末には、シリアの都市マアッラを陥落させた後、住民を殺戮し、異教徒に対する侮蔑か飢餓のあまりか、犠牲者を鍋で煮たり串で焼いたりする人肉食事件が起こる。1099年初頭になってようやく指揮系統が回復し、アンティオキアの私有化をしつこく主張するボエモンを後に残して軍勢はエルサレムに向かった。ボエモンはアンティオキア公国建国を宣言、アンティオキア公ボエモン1世となる。

[編集] エルサレム包囲

中近東地域に入った十字軍はエルサレムを目指して地中海沿岸を南下した。組織的な抵抗はほとんどなかった。というのもこれまで十字軍の通過した町や村の荒廃を聞き、セルジュークやアラブのの地方有力者たちはわざわざ争うよりも十字軍に宝物・食料・馬など物資や道案内を提供して無難に通過させることを選んだからであった。東地中海有数の富裕な港、トリポリはその富のため略奪されようとしたが、まず付属都市の攻略に向かった十字軍は住民の必死の抵抗で手間取るうちに攻略をあきらめてしまい、助かったトリポリは多数の貢物で十字軍を送り出した。

一方エジプトのファーティマ朝は動揺していた。アンティオキア攻略中の十字軍に宰相アル・アフダルは使者を送り、シリアの南北分割統治を提案したものの、彼らはあくまでエルサレムの地位にこだわり、十字軍との同盟も不可侵条約も成り立たなかった。その後の交渉も十字軍側はすべてはね除け、エルサレムを軍で奪取することを宣言し、ついにファーティマ朝の北限境界を越えた。ファーティマ朝領内の港湾都市、サイダ(シドン)は抵抗して近郊の農地を略奪されたが、ベイルートティールアッカなどは十字軍をもてなして道案内し、途中の農村の住民たちはみな避難して抵抗しなかった。ファーティマ朝は、つい一年前にアンティオキア陥落後のセルジュークの弱体化に乗じてテュルク系の領主から聖都エルサレムを奪ったことを後悔し始めた。こうして1099年5月7日、軍勢はいよいよ目的地のエルサレム郊外に到着した。十字軍将兵たちは目指すエルサレムを目の当たりにした感激に落涙を禁じえなかった。

アンティオキア攻略と同様に十字軍はエルサレムの包囲を行い、攻城やぐらを建設し城壁を乗り越えようとした。しかしファーティマ朝の司令官イフティハール・アル・ダウラは石油や硫黄を使った攻撃で、兵を満載した攻城やぐらに火を放ち城を守り、一方十字軍側は満足な食料の補給もなかったため、死者の数は増える一方となった。しかもファーティマ朝本国から宰相アル・アフダルらのムスリム軍援軍が迫っており、不十分な軍勢でエルサレム攻略は不可能かと思われた。そのとき従軍していたペトルス・デジデリウスという司祭が、断食したうえ裸足で九日間エルサレムの周りを回ればエルサレムの城壁は崩壊するという幻を見たと主張しはじめた。それは旧約聖書のエリコの陥落の故事をふまえた発言であった。1099年7月8日、デジデリウスの後に従い、将兵たちはエルサレムの周りを回り始めた。七日目の7月15日、一同は城壁の弱点を発見してそこを打ち壊して城内に入ることに成功した。城内の殺戮のさなか、イフティハールは砦の上で抗戦していたがレーモン・ド・サン・ジルの提案を受け降伏し、部下とともに無事アスカロンの港に脱出した。

一方、城内に入った軍勢はエルサレム市民の虐殺を行い、イスラム教徒、ユダヤ教徒のみならず東方典礼のキリスト教徒まで殺害した。ユダヤ教徒はシナゴーグに集まったが、十字軍は入り口をふさぎ火を放って焼き殺した。多くのイスラム教徒はソロモン王の神殿跡(現在のアル・アクサモスク)に逃れたが、十字軍の軍勢はそのほとんどを殺害している。著者不明の十字軍の従軍記「ゲスタ・フランコルム」によると虐殺の結果、「血がひざの高さに達するほどになった」と書いているが、さすがにこれは誇張であろう。 虐殺に伴ってイスラム教徒、ユダヤ教徒、東方正教徒の女性に対する大強姦と財宝の略奪も行われた。狂信的なキリスト教徒である十字軍兵士達は歓喜すら覚えつつこれらの蛮行を行った。

市民の殺害が一段落すると、軍勢の指導者となっていたゴドフロワ・ド・ブイヨンは「アドヴォカトゥス・サンクティ・セプルクリ」(聖墳墓の守護者)に任ぜられた。これはゴドフロワが、王であるキリストが命を落とした場所の王になることを恐れ多いと拒んだからである。ギリシア、アルメニア、コプトなどの東方正教会各派のエルサレム総主教たちは追放され、カトリックの司教が立てられた。キリストが架けられた「聖十字架」など聖遺物も、司祭たちを拷問して在り処を話させついに手に入れた。

ゴドフロワはこのあと、エルサレム守備にやってきたもののすでに手遅れでエルサレム手前でとどまっていた宰相アル・アフダルらのファーティマ朝の軍勢をアスカロンの戦いで急襲し破った。以後エルサレムを拠点にパレスチナやシリア各地を襲ったが、1100年にエルサレムでこの世を去った。弟のエデッサ伯ボードワン(ボードゥアン1世)が後を継いで「エルサレム王」を名乗った。ここに十字軍国家「エルサレム王国」が誕生する。

[編集] 1101年の十字軍と十字軍国家の樹立

エルサレムの占領と聖墳墓(キリストの墓)の奪回によって十字軍活動は当初の目的を達成した。このニュースがヨーロッパに伝わると、途中で脱落して帰国した騎士たちや、そもそも十字軍に参加しなかった騎士たちは激しい非難と嘲笑にさらされ、聖職者による破門さえほのめかされた。一方、エルサレムを占領した将兵たちも大部分は故郷に凱旋した。シャルトルのフルシェルによれば1100年のエルサレム王国には数百名の兵力しか残っていなかったという。また、1100年に小アジアでまたもマラティアを攻めていたダニシュメンド王を討とうとしたアンティオキア公ボエモン1世は逆にダニシュメンドの捕虜となってしまう。十字軍は手薄な状態だったが、ムスリムも内輪もめに終始していたので、地盤を固める時間はあった。アンティオキア公国の後継者はボエモン1世の勇猛な甥で、亡きゴドフロワのもとで戦ってきたタンクレッドとなり、彼が後にアンティオキア公国をシリアに君臨する強国とする。

1101年に入ると、ヨーロッパにおいて(途中で脱落した)ボロワ公エティエンヌやユーグ・ド・ヴェルマンドワによって新たな軍勢が組織され、他の諸侯との不仲でコンスタンティノープルにいたレーモン・ド・サンジルと合流し、女子供を含む十万人近い軍勢が再びエルサレムを目指した。(これを1101年の十字軍ともいう。)軍勢は小アジアでアンカラを陥落させたが、捕虜のアンティオキア公ボエモン1世を救おうとして向かった先でクルチ・アルスラーン1世とダニシュメンドのセルジューク連合軍にさんざんに打ち破られて壊滅した。なんとか生きてシリアに達した者はトリポリの港の攻撃に取り掛かった。

トリポリ領主はシリア・セルジューク朝のダマスカス王ドゥカークと組んでわずかな数に減った十字軍騎兵を撃退しようとしたが、ドゥカークは以前、王となるためエルサレムに向かうエデッサ伯ボードワンを討とうとして、トリポリ領主のボードワンへの密通により失敗した恨みを忘れていなかった。ドゥカークの軍は十字軍を見ただけで退却し、残されたトリポリ軍は大敗した。こうしてレーモン・ド・サンジルは、後々まで十字軍の強力な補給と上陸の拠点となるトリポリ伯国を郊外の城に誕生させることに成功した。エルサレムに到着した騎士たちはエルサレム王国の守りを固めることになった。やがてイタリアの商人たちがシリアの諸港に来航して物資を補給し始め、テンプル騎士団、病院騎士団(聖ヨハネ騎士団)といった騎士修道会が組織されてエルサレム王国を防衛することになった。

[編集] 分析

[編集] 第1回十字軍の成功後

第1回十字軍は、エルサレム王国アンティオキア公国エデッサ伯国トリポリ伯国十字軍国家と呼ばれる国家群をパレスティナとシリアに成立させて、巡礼の保護と聖墳墓の守護という宗教的目的を達成した。第1回十字軍が成功したことは誰にとっても予想外な出来事だった。君主たちは西欧の安定によって失われていた武力の矛先を東方に見出し、占領地から得た宝物によって遠征軍は富を得ることができた。また、十字軍国家の防衛やこれらの国々との交易で大きな役割を果たしたのはジェノヴァヴェネツィアといった海洋都市国家である。これらイタリア諸都市は占領地との交易を盛んに行い、東西交易(レヴァント貿易)で大いに利益を得た。

エルサレムから西欧に帰ってきた戦士たちは英雄視されることになった。フランドルのロベール2世はエルサレムにちなんで「ヒエロソリュマタヌス」と呼ばれた。ゴドフロワ・ド・ブイヨンの生涯は死後数年を経たずして伝説となった。その一方で十字軍将兵の不在はその間の西欧情勢に変動をもたらしていた。たとえばノルマンディー地方は領主ロベール・カルトゥース(ノルマンディー公ロベール)がいない間に弟であるヘンリー1世の手に渡っていた。当然帰ってきた兄はこれをめぐって弟と争い、1106年にはティンチェブライの戦いが引き起こされている。

また、ビザンティン帝国は十字軍国家が設立されたことで、直接にイスラム諸国からの圧迫をうけることがなくなった。これによってアナトリア地方の支配権を大きく取り戻し、ふたたび繁栄の時代を迎えることができた。

教皇庁は十字軍の掛け声によってばらばらだった西欧のキリスト教徒をまとめあげることができること、戦争が宗教的活動となりうることを発見した。これはそれまでのキリスト教にはなかった発想であった。つまりそれまで修道者だけのものとされていた宗教的な使命を騎士たちも持つことができるようになったのである。一方、東方正教会とカトリックの和解が十字軍を唱えたカトリック教会指導者側の当初の動機のひとつだったにもかかわらず、両者の間はかえって十字軍により緊張した。両教会は、それまで教義上は分裂しつつも、名目の上では一体であり、互いの既存権益を尊重しつつ完全な決裂には至っていなかったが、十字軍が東方正教会のエルサレム総大司教を追放しカトリックの司教をおいたことで、この微妙な関係は崩れ、かえって緊張が深まった。この緊張はコンスタンティノープルが略奪される第4回十字軍において頂点に達することになる。

イスラム諸国は危機に際しても依然として互いに猜疑心が深く、国の奪い合いや領主同士の争いや世継ぎ争いをやめず、共闘体制をつくることができなかった。それどころか自分たちの争いに十字軍国家を利用するため、これらと同盟を結ぶ始末だった。シリアやパレスチナの宗教代表者たちはバグダードにいるカリフや大セルジューク朝本家のスルタンらに直訴に行くが、彼らは無力で内輪もめに終始し、とてもジハードに結集するどころではなかった。このあとムスリムの軍はいくつかの戦いで散発的に十字軍を破るものの、その追放を企図する者はいなかった。イスラム教国が結集するようになるのは12世紀半ばのモースルとアレッポの領主ザンギー、その息子ヌールッディーンの時代を、また西欧人を蹴散らすようになるのは彼らの部下だったサラディンの時代である12世紀終わりをまたなければならない。

[編集] 十字軍としての意識

当時十字軍という呼び名は無く、単に「十字をつけた者」と呼ばれた。「十字軍(クルセーダー)」という言葉が最初にあらわれるのは第1回十字軍の百年ほどあとである。彼らは、聖地を奪回する、イスラム教徒と戦うという意識以外に、免償(罪の償いの免除)を求めてエルサレムへ向かう「巡礼者」(ペレグリナトーレス)という意識も強かった。

[編集] 十字軍運動の魅力の秘密

もともと十字軍は一部の騎士に対する呼びかけであったが、やがて膨大な人数を動員して移民活動のような状況を呈することになった。このことからわかるのは十字軍への呼びかけというのは当時のキリスト教徒にとってとても魅力のある言葉だったということである。西ヨーロッパ中世におけるキリスト教徒の二つの生き方、聖なる戦士と巡礼者が一つに結びついたのである。戦闘に参加したものに免償が与えられる、あるいは戦闘で死んだものが殉教者となりうるというのは十字軍運動の中で初めて生まれた概念であった。そして十字軍に参加することで与えられる免償は、エルサレムへ詣でるという巡礼者としての免償とキリスト教戦士として戦うという免償の二重の意味があるため、生き残っても死んでもどちらにせよ免償を受けられるというのが魅力であった。また、下級騎士たちは封建制度の息苦しさから逃れようとし、農民や職人たちも退屈で困難な日常から逃れたいという気持ちをもっていた。このように宗教的なものから、世俗的なもの、心理的なものまでさまざまな人々がさまざまな動機によって十字軍運動に身を投じたのである。

[編集] 霊性と世俗の間

かつて、十字軍の主要な従軍者たちは貴族でも相続権をもたない子弟たちか、また貧しい下級騎士たちが一山あてようと財産目当てで志願したというの十字軍観があった。一方では十字軍運動に参加した当時の人々にとって重要なのは地上の富だけでなく霊的(精神的)な富であったとの考えもある。 一般的には十字軍士を駆り立てたものは、宗教的情熱、名誉欲、冒険、領土・財産欲の組み合わせであり、その比重は人と時代により違う。第1回十字軍は第4回以降の十字軍より宗教的情熱は強いが、ノルマン騎士の場合は冒険、領土・財産欲の比重が高い。庶民の参加者は宗教的情熱が高く、北フランス貴族の場合は名誉欲が強かった。

しかし、最近の研究の一つは、宗教的情熱は従来の想像した以上に強いかったのではないかと述べている。ケンブリッジ大学の歴史学者ジョナサン・ライリー・スミスは自身の研究によって十字軍への参加が非常な出費を強いるものであったことを明らかにしている。特に中心的な存在であった諸侯たち、ヴェルマンドゥワのユーグやノルマンディー公ロベール、トゥールーズ伯レーモン・ド・サンジルなどは資産を売り払ってまで十字軍の従軍費用を捻出している。

現世的な富よりも宗教的な情熱が騎士たちを動かしたことの証左としてゴドフロワ・ド・ブイヨンと弟のブルゴーニュ伯ボードワンが、かつて教会と争ったことの償いとして自らの土地を教会に寄進して出発したことがあげられる。もちろんその寄進記録は聖職者が書いたものでゴドフロワ自身が書いたものではないため、信仰深い騎士として美化している部分はあるものの二人が財産を寄付した事実に変わりはない。

さらに貧しい下級騎士たちは寄付を受けるか、裕福な騎士の世話になるかしないと十字軍に参加できなかった。たとえばボエモンの甥で後のアンティオキア公タンクレードも叔父に仕えることを条件に十字軍に参加している。寄進や慈善行為の支えによって行われた第1回十字軍とは対照的に後の十字軍は特定の裕福な王や皇帝による主導や十字軍税の援助によって行われている。

[編集] 関連項目

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