アレクシオス1世コムネノス
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アレクシオス1世コムネノス(Alexios I Komnenos, ギリシャ語表記:Αλέξιος Α' Κομνηνός, 1048年 - 1118年8月15日)は、東ローマ帝国コムネノス王朝の初代皇帝(在位:1081年 - 1118年)。マケドニア王朝断絶後に皇帝となったイサキオス1世コムネノスの甥に当たる。24歳の若さで将軍となる。
ドゥーカス王朝支配下の頃の東ローマ帝国では、内部では有力貴族の反乱、外部ではトルコ人のセルジューク朝やノルマン人に東西から侵攻を受け、まさに内憂外患の状態にあった。小アジアに至ってはほとんどの領土が奪われ、首都コンスタンティノポリスの対岸にまでトルコ人が迫っていたのである。
このような中で1081年、アレクシオス1世コムネノスは反乱を起こして時の皇帝・ニケフォロス3世ボタネイアテスを退位させ、自ら皇帝として即位し、コムネノス朝を開いた。
即位後、アレクシオス1世は対外政策に力を注いだ。当時、11世紀半ばまで東ローマ帝国領であった南イタリアはノルマン人のロベール・ギスカールによって征服され、その手はバルカン半島にまで及んできていたが、アレクシオス1世はヴェネツィア共和国と同盟を結ぶことで、海の守りを固め、子のボエモンドを屈服させ、父のロベールの熱病死によって撃退させることに成功したのである。しかし、このときの同盟の代償としてヴェネツィア共和国に関税特権などの様々な特権を与えたことが、後の帝国内の商工業者の衰退、東ローマ帝国とヴェネツィア共和国との対立等を招く一因ともなってしまった。
帝国の西方ではクマン族などの異民族による侵攻もあったが、アレクシオス1世はクマン族をはじめとする異民族の討伐にも乗り出して、帝国西部の領土奪回を果たしている。また、東方のルーム・セルジューク朝に対しては、これを討つためにローマ教皇に傭兵の提供を要請した。
ところが、これは第1回十字軍という思いもよらない事態を招いてしまった。1096年から開始されたこの十字軍遠征により、東ローマ帝国は確かにイスラム勢力の脅威から脱することはできたが、帝国領が十字軍遠征の通過地となった結果、皮肉にも十字軍の乱暴狼藉や略奪に逆に苦しめられることとなってしまったのである。
また内政面においては貨幣の悪鋳で信用が低下してしまった通貨の改革や官位売買によって乱れてしまった爵位の再編を行ったほか、有力貴族と皇族との間に婚姻関係を結ぶことで関係を強化(コムネノス朝以降、滅亡する1453年まで皇帝はコムネノス家・ドゥーカス家の血を引いた者しかいない)し、貴族の反乱を抑えた。また大土地所有貴族達に軍事力提供と引き換えに徴税権や土地を与える「プロノイア制度」で、強力な私兵を抱える彼らの協力を得て帝国の軍事力を強化した。
これらの政策は孫のマヌエル1世時代になると帝国を窮地に陥れることになるが、ひとまず、アレクシオス1世の賢明な統治によって、バシレイオス2世の没後衰退する一方だった東ローマ帝国は再び安定の時代を迎えて約100年の間衰退を食い止め、東地中海の強国の座を奪回・維持することに成功することになるのである。
東ローマ帝国コムネノス王朝 | ||
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