相馬義胤 (十六代当主)
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相馬 義胤(そうま よしたね、天文17年(1548年) - 寛永12年11月16日(1635年12月25日))は、戦国時代、安土桃山時代の武将、大名。陸奥相馬氏第十六代当主。相馬盛胤の子。正室は、はじめ伊達稙宗娘・越河御前。越河御前とは永禄6年(1563年)頃に離縁し、天正4年(1576年)の春に長江月鑑斎の兄(渡部氏)の娘を正室として迎えた。1578年に家督を継承。
父・盛胤と同じく南奥州を代表する勇将であり、伊達氏との戦いに生涯をかけた。1564年には伊達領の伊具郡に侵攻したのをはじめとして、1576年から1589年まで伊達氏との抗争に明け暮れたのである。
天正12年(1584年)5月、田村清顕・岩城常隆・佐竹義重らの仲介により、伊達輝宗・政宗と和議が成立した。また和議の成立により、伊具郡丸森城をこの年に、金山城を翌年伊達に返還したとされる。
天正13年9月(1585年)、義胤は三春訪問の途次、政宗と安達郡宮森の陣所で初対面を果たしている。10月8日、伊達輝宗が、安達郡二本松城主畠山義継に捕らえられて死去すると、10月14日には、政宗を援けて三春より出陣した。ただし、11月17日の人取橋の戦いでは、佐竹・蘆名連合軍に加わり、約三百騎で岩瀬軍と佐竹軍の間に本陣を構えて伊達軍と対自したようである。だが、ほとんど記録がないところをみると積極的な動きはなかったようである。
天正14年7月16日(1586年)、二本松城が落城すると義胤の斡旋により畠山国王丸・新城弾正らが会津に退いた。10月9日、三春城の田村清顕が死去すると田村家内で相馬方・伊達方に別れて争いがおこる。義胤は豊臣政権により奥羽惣無事を命ぜられたが、これをきっかけとして、再び相馬氏と伊達氏は不和となった。義胤は政宗を相手に奮戦するが、次第に劣勢に立たされてゆく。
天正18年5月14日(1590年)には弟の隆胤が小豆畑の戦いで討死し、相馬氏は滅亡の危機に瀕した。 しかし、同年の豊臣秀吉の小田原征伐に参陣して、行方・宇多・標葉の三郡4万8千石を安堵される。この直前には、伊達衆の保原伊勢から隠密の使者が来て降伏を勧められていたが、義胤は討死を決意していた。「我と死生を同じくしようとする者は妙見のご神前において神水を飲むべし。もし、異儀を唱えるものは来るに及ばず。我は少しも恨みに思いはしない。」といって、まさに最後の一戦を挑むところであったという。
慶長元年(1596年)嫡男の虎王の元服に際しては石田三成から「三」の偏移を受けて「相馬三胤」と名付けた。また蘆名盛隆の娘(二女)を三胤の正室に迎えた。この姫は蘆名義広の養女となっていたが摺上原の戦いで義広が政宗に敗れたため、義広と共に佐竹領へ逃れていたものと考えられる。江戸崎御前と呼ばれている。
慶長3年(1598年)には居城を小高城から牛越城(南相馬市原町区牛越)に移す。
慶長5年(1600年)三胤の妹が十歳で岩城常隆の養子、貞隆(佐竹貞隆)に輿入れされている。この事があってか、同年の関ケ原の戦いで勝利を収めた徳川家康によって、相馬氏は西軍に属した佐竹義宣の一門とみなされている。
慶長6年(1601年)1月、水谷胤重の進言によって上杉景勝の所領、月夜畑を夜襲する。3月、弟・郷胤死去。5月、三胤室・江戸崎御前死去。10月、父・盛胤死去。
慶長7年(1602年)5月、家康によって隣国の岩城貞隆と同じく相馬三郡を改易される。秋田に転封された貞隆の兄・佐竹義宣に秋田の地1万石を与えるので移るように誘われたが、これを丁重に断って、所領没収撤回の訴訟のため三胤を江戸へ向かわせた。このとき、水谷胤重が月夜畑の戦いで死んだ相馬の戦死者の名簿を帳面にして記しておいたため、訴訟にも有利に使われ、徳川家臣本多正信の説得もあり、同年10月、所領安堵となったという。
この折、伊達政宗のとりなしもあったという。『藩翰譜』(新井白石著) ※新井白石は事件当時まだ生まれておらず、これはでたらめであるという説もある。
以後、義胤は家督を嫡男の三胤改め利胤に譲って隠居する。その利胤は1625年、父に先立って病死したが、自身は孫の虎之助の後見役となり、1635年まで生き延びた。
あるとき、義胤は八十余歳の白髪で江戸に登城して場内に入った。丁度、下馬するときに政宗は退出してきたが、政宗は輿にはすぐに乗らずに暫く立って義胤を見送った。義胤はこれを見て若い頃の政宗を思い出し、孫の虎之助に向かって「若い者は朝夕交わる中でも、気を抜かずに用心すべきである。」と忠告したという。
同慶寺の住職の話によれば、その遺体は遺言により、伊達氏の勢力圏である北向きに埋葬されたという。