本多正信
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本多正信(ほんだまさのぶ、天文7年(1538年) - 元和2年6月7日(1616年7月20日))は徳川家康の参謀。本多俊正の子。嫡男に本多正純、二男に本多政重、三男に本多忠純。通称は弥八郎・本多佐渡。
1563年、三河にて徳川家康に反対する一向一揆が起こると、正信は一揆方に与して家康と対立した。そして一揆衆が家康によって鎮圧されると、徳川氏を出奔して大和の松永久秀に仕える。また本願寺と連携し織田信長とも戦って、大いな功績を残し評価されたともいう。しかし後に久秀と意見が適わず、再び出奔した。こうして正信は十数年余(あるいは数年余)も各国を放浪した末に、旧知の大久保忠世の所に訪れて家康への帰参を嘆願したという。やがて忠世の懸命のとりなしによって彼は無事に徳川氏に帰参した。(帰参時期は諸説あり。姉川の戦いの頃、あるいは本能寺の変直前の頃とも。)正信は帰参すると、今度は鷹匠として再び家康に仕えたという。
1582年、本能寺の変が起こって右大臣・信長が横死すると、当時、堺の町を遊覧していた家康は伊賀越えを決意する。この時、正信も伊賀越えに付き従っていたと言われている。
豊臣秀吉の死後から、家康の参謀として大いに活躍する。前田利長の謀反嫌疑の謀略など、家康が行なった謀略の大半は、この正信の献策によるものであったと言われている。しかし1600年の関ケ原の戦いでは、徳川秀忠の軍勢に従い、信濃の上田城で真田昌幸の善戦に遭って、遅参している。この時、正信は秀忠に上田城攻めを中止するように進言をしたが、容れられなかったと言われている。同時に正信は家康の後嗣として家康の次男の越前秀康を評価し、強く推挙したといわれる。
江戸幕府成立後の1607年からは秀忠の付家老となり、幕府内において帰参の恩人であった忠世の長子である政敵・大久保忠隣らを失脚させるなど、大きな権力を振るった。しかし武功派の家臣達からは奸臣呼ばわりされ評判が相当に悪かった。同族の本多重次(鬼作左)も正信のことを快く思わず、同時に本多忠勝からは「腰抜け」「同じ本多一族でもあやつとは全く無関係である」、榊原康政からは「腸の腐った奴」と散々な言われようだった。しかし意外なことに、正信の領地は相模玉縄に二万石しか領していなかったという。権勢欲はあったが、領土欲は乏しかったらしい。 正信は常々、子の正純に「大身代になろうと欲を出してはいけない。現在の地位で満足するのが、永く幸福を保つ道である」と説いていた。正純は、父同様に権勢を牛耳ったが、その遺志に叛いて宇都宮15万石もの大封を得たものの、後に失脚を余儀なくされている。
1614年からの大坂の陣でも、家康に多くの献策をしている。1616年、家康が死去すると家督を正純に譲って隠居し、まもなく家康の後を追うように没した。享年79。徳川の知恵袋と評される。それゆえに秀吉や家康を扱ったドラマにはほぼすべてに登場しており、宍戸錠などのように悪人顔や謀略に長けたタイプの顔をした者に配役されている。
家康は正信を参謀として重用し、「友」と呼んだと言われている。また、正信が何を言っているのか第三者には理解できなくても、家康は理解できたと言われている。因みに『本佐録』の著者は正信であるとも言われている。