相馬盛胤
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
この項目の一部の版または全体について、削除の手続きに従って、削除が提案されています。
この項目の執筆者の方々へ: まだ削除は行われていません。削除に対する議論に参加し、削除の方針に該当するかどうか検討してください。
この項目は著作権侵害が指摘され、現在審議中です。
審議の結果、該当する投稿以降の版全てもしくはこの項目自体が、履歴も含めて削除される可能性があります。この版の編集や引用はしないで下さい。著作権上問題のない自分の投稿内容が削除される可能性のある方は、早めに控えを取っておいて下さい。(→詳しくはこちらの解説をお読み下さい。)
該当する投稿をされた方へ: ウィキペディアでは、著作権上問題のない投稿のみを受け付けることになっています。他人の著作物を使うときをお読み頂いた上で、審議にご協力をお願いします。
審議が終わるまで、このお知らせを除去しないでください。
相馬 盛胤(そうま もりたね、文明8年(1476年) - 大永元年(1521年))は相馬氏第十三代当主。相馬高胤の子。
相馬 盛胤(そうま もりたね、享禄2年(1529年) - 慶長6年(1601年))は相馬氏第十五代当主。相馬顕胤の嫡男。母は伊達稙宗の長女(屋形御前)。
盛胤の妻は伊達稙宗の孫・伊達義宗(懸田義宗)の娘であるが、盛胤は伊達氏との抗争に1540年から1590年までの半世紀にもわたって明け暮れたという。
1549年、盛胤はその妹を田村清顕に嫁がせるに際して、化粧料として標葉郡のうち、南津島・葛尾・岩井沢・古道の四か村を田村氏に譲っている。
盛胤は武勇に優れ、1564年には伊達晴宗と戦って伊具郡を占拠したが、長年の抗争から次第に相馬氏は衰退していった。
1586年、蘆名・佐竹連合軍に加わって蘆名氏・佐竹氏と共に伊達氏を攻めるも(人取橋の戦い)、伊達政宗の登場で力関係も逆転していく。
1589年、摺上原の戦いでは佐竹義重の子・蘆名義広が伊達政宗に敗れ、相馬氏も宇多郡の拠点のほとんどを政宗に奪い取られて一気に滅亡の危機に立たされてしまう。
しかし翌年、幸運にも豊臣秀吉の小田原征伐が始まったため、所領を安堵され、近世大名として生き延びることができた。