玉縄城
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玉縄城(たまなわじょう)は相模国鎌倉郡玉縄村(現在の神奈川県鎌倉市玉縄地域城廻)にあった平山城。甘縄城ともいう。
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[編集] 城の歴史
[編集] 北条氏時代
永正9年(1512年)北条早雲により築かれ、代々北条一門が城主となった。城の外堀が柏尾川と直結し、相模湾まで舟を繰り出す事が可能だった関係で水軍などを統括する重要拠点となった。
大森氏の小田原城を奪い、西相模に進出した北条早雲は東相模の三浦氏と争うが、長期戦となった。この際、武蔵の扇谷上杉家当主上杉朝興が三浦氏の援軍として挟撃してくる事への備えが必要とされ、三浦半島の付け根に当たるこの地に玉縄城が築かれた。三浦氏滅亡後は安房里見氏に対する押さえとしての役割を担った。 堅城として知られ、大永6年(1526年)11月26日に足利義明に呼応して鎌倉へ攻め入った里見義豊(里見実尭を大将とする説もある)の軍勢を撃退したときをはじめ、度々里見氏の攻撃を退けた。また上杉謙信・武田信玄が相模へ乱入した際も攻略をあきらめたほどである。豊臣秀吉による天正18年(1590年)の小田原征伐においては、徳川家康の攻撃を受け、守将北条氏勝は降伏・開城。以降徳川氏の支配下になる。
[編集] 徳川氏時代
徳川政権下においても玉縄城は重要視され、家康側近の本多正信の居城となり、その後は一門の長沢松平氏の居城となった。元禄16年(1703年)2月10日、長沢松平氏が上総国大多喜藩へ転封となったのを機に玉縄城も廃城となった。(近世期の玉縄城については玉縄藩の記事も参照せよ)
[編集] 現在
昭和30年頃までは比較的多くの遺構が残っていたようであるが、昭和38年(1963年)に女子高の清泉女学院が城跡に移転して以降、その多くが破却された。破壊を免れた遺構としては、城の最高部であったと言われる土塁「諏訪壇」があるが、樹木が生い茂り、実際に訪れても形状の把握は難しい。また、清泉女学院校門前に安置されている巨石は、玉縄城遺構の一部と言われる。
近年は宅地化が進み周囲に数多くのマンションが建築された。辛うじて清泉女学院に隣接する住宅地に「早雲台」、周辺地域に「城山」「城廻」等の名を残すが、地名以外に往時の状況を偲ぶ事は困難である。また城跡の見学は学校警備の関係上自由にはいかなくなっている。
一方でその地域は自然環境に恵まれ、清泉女学院中学の理科の課外授業は校内で行われるほどである。
[編集] 歴代城主
[編集] 周辺の史跡
- 龍宝寺
- 古くは大宝寺。後北条氏時代の城主の墓所が建つ。
- 玉縄首塚
- 甘縄首塚とも。大永6年に起きた里見氏との戦いで討ち取られた北条方の将を弔った塚で柏尾川沿いに建っている。毎年8月19日に「玉縄史跡まつり」と題し供養を兼ねた祭りが開催されている。塚の脇には首塚の成立過程を記した石碑が建っている(昭和43年(1968年)建立)
最寄の鉄道駅はJR大船駅。