水野分長
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水野 分長(みずの わけなが、永禄5年(1562年) - 元和9年3月1日(1623年3月31日))は、戦国時代の武将。江戸時代の大名で尾張緒川藩主。三河新城藩の初代領主。父は水野忠政の八男・水野忠分(分長は長男)。紀伊新宮藩の初代当主水野重央は弟にあたる。水野勝成と徳川家康の従兄弟。正室は山口重勝の娘。官位は従五位下、備後守。弾正忠。
1562年、尾張に生まれる。幼名は藤治郎。はじめ叔父の水野忠重に属した。1584年、小牧・長久手の戦いで首級を挙げて武功を挙げた。小田原征伐にも忠重に属して従軍する。その後、水野氏を去って家康の命令で蒲生氏郷に属し、九戸政実の反乱で先陣を務め戦功を挙げた。1599年に家康から呼び戻され、翌年の関ヶ原の戦いに参加する。1601年に尾張緒川藩1万石を与えられた。1604年に備後守に任ぜられる。
1606年に三河新城に移封され、設楽・宝飯郡内で1万石を与えられた。1614年からの大坂の陣にも従軍する。1616年に家康が亡くなると徳川秀忠に仕え、近江栗太郡内で2000石を加増された。1620年に徳川頼房に付けられて水戸藩に移る。この際に新城の領地は長男の水野元綱に譲り、分長は安房・上総国内で1万5000石を与えられた(近江の領地は収公されている)。1623年3月1日死去。享年62。法名:受光院殿実窓英真大居士。墓所:愛知県新城市字裏野の永住寺。
死後、安房・上総国内の領地は相続するものがなく収公された。