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武田勝頼 - Wikipedia

武田勝頼

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

武田 勝頼たけだ かつより)は、甲斐戦国大名で、武田氏の第20代当主。

武田勝頼 凡例
甲斐大和駅横にある銅像
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甲斐大和駅横にある銅像
時代 戦国時代
生誕 天文15年(1546年
死没 天正10年3月11日1582年4月3日
改名 四郎(通称)。諏訪勝頼、伊奈勝頼(別名)
官位 なし
氏族 武田氏諏訪氏武田氏甲斐源氏
父母 父:武田信玄、母:諏訪頼重の娘・諏訪御料人
兄弟 兄:武田義信海野信親武田信之
弟:仁科盛信ほか
正室:織田信長の養女・遠山夫人
継室:北条氏康の娘・北条夫人ほか
武田信勝武田勝親ほか

甲斐躑躅ヶ崎館主で、武田二十四将の一人と数える場合もある。

諏訪氏を継いだため、諏訪四郎勝頼、あるいは信濃伊奈谷の高遠城主であったため、伊奈四郎勝頼ともいう。または、武田四郎、武田四郎勝頼とも言う。

朝臣としての名乗りは源勝頼みなもと・の・かつより)。父信玄は足利義昭に官位と偏諱の授与を願ったが、織田信長の圧力によって果たせなかった。そのため官位はない。

甲斐の戦国大名・武田信玄の四男。母は信玄の側室である諏訪頼重の娘・諏訪御料人。正室は織田信長の養女・遠山夫人。継室に北条氏康の娘の北条夫人など。

目次

[編集] 生涯

[編集] 信玄の世子へ

天文15年(1546年)、武田信玄の四男として生まれる。母は側室の諏訪御料人。

父・信玄は自らが滅ぼした諏訪氏の家督を継がせようとして、永禄5年(1562年)に母の実家である諏訪氏の名跡を継がせた。ちなみに勝頼の「頼」は、諏訪氏の当主が襲名してきた字である。このため、諏訪四郎勝頼と名乗り、信濃高遠城主となった。

しかし、永禄8年(1565年)には長男の義信が駿河侵攻を巡り信玄と対立。クーデタを起こした上、信玄追放に失敗して幽閉され、永禄10年(1567年)に死去。次兄の海野信親は生まれつきの盲目のために出家し、三兄の信之は夭逝している事から、勝頼が信玄の指名で後継者と定められた。

[編集] 家督相続

永禄5年(1562年伊奈郡代に任命され高遠城主となる。永禄6年(1563年)、上野箕輪城攻め(武蔵松山城攻めとも)で初陣する。その後の上野箕輪城、倉賀野城攻め等でも功を挙げた、永禄12年(1569年)の北条氏武蔵滝山城攻め、相模小田原城攻めに起因する三増峠の戦い、元亀元年(1570年)の駿河平定戦等においても武功を挙げた。

元亀2年(1571年)、信玄の命令で高遠城から躑躅ヶ崎館に移る。これは事実上、勝頼を後継者にすると信玄が明確にしたことを現すものであった。

元亀3年(1572年)、父・信玄が西上作戦(異説あり。三方ヶ原の戦い参照)を開始すると、一隊の大将として参戦し、12月の三方ヶ原の戦いでも織田・徳川連合軍と戦い、これを破るという武功を挙げた。このように信玄の晩年における主要な合戦の大半に参加して、武名を挙げたといわれている。

元亀4年(1573年)4月、父・信玄が上洛作戦の途中で病死したため、家督を相続し、武田氏第20代当主となる。しかし信玄の死去により上洛作戦は頓挫し、勝頼は本拠地・甲斐に軍勢を撤退させた。

[編集] 織田・徳川の反攻

信玄の死により、織田信長、徳川家康らは窮地を脱した。そして信長は信長包囲網の黒幕である室町幕府将軍足利義昭河内に追放し、さらに越前近江に攻め入って浅井長政朝倉義景を滅ぼした。また、徳川家康も武田氏に誼を通じていた北三河国人の山家三方衆の内奥平貞能奥平信昌親子を寝返らせるなど、信玄存命中は守勢一方であった織田・徳川連合軍の逆襲が始まった。

これに対して勝頼は、父以上の勢力拡大を目指して積極的な外征を実施する。天正2年(1574年)2月、東美濃の織田領に侵攻し、明智城を落とした。信長は嫡男・織田信忠と共に明智城の後詰(援軍)に出陣しようとしたが、それより前に勝頼が明智城を落としたため、信長は岐阜に撤退した。

6月、遠江の徳川領に侵入し、信玄が落とせなかった遠江の堅城・高天神城を陥落させて城将・小笠原長忠を降し、東遠江をほぼ平定した。

[編集] 長篠の戦い

天正3年(1575年)、勝頼は先年に徳川家康に寝返った奥平親子を討伐するために兵1万5000(一説には8000から1万)を率いて三河国へ侵入し、奥平信昌が立て籠もる長篠城への攻撃を開始する。しかし奥平勢の善戦で長篠城は武田軍の猛攻を支え、長篠城攻略に想定外の時間を費やすこととなる。そして、遂に織田信長・徳川家康の連合軍およそ3万5000(注:一説には織田軍1万2000。徳川軍4000)の大軍が長篠(設楽ヶ原)に到着し、馬防柵を含む陣城の構築を開始した。これに対し、勝頼は長篠城の抑えに兵2000を残し、主力1万3000(一説に兵6000)を率いて設楽ヶ原へ進出し織田徳川連合軍と対峙する。

当時、甲州兵は強兵といわれ、また長篠決戦前日の小規模な戦闘で勝利していたこともあり、武田軍の士気は旺盛であった。但し、戦場の勝頼から後方の長坂光堅(釣閑斎)に宛てた書状には、此度の戦を危ぶむものもいるがという意の記述があり、武田家においても必ずしも楽観的でなかったと思われる節がある。またこの書状での勝頼の案ずることはないという意の記述や、敵は逼塞しているという意の記述から勝頼自信過剰説が巷間言われるようになったが、戦場から大名家の当主が後方の家臣に出す手紙という面を考慮すれば、そのままの文意を鵜呑みにすることは出来ない。寧ろ後方の不安を取り除くための書状と見ることも可能である。

織田信長直々の出陣というその強い意志と、もはや野戦ではなく攻城戦に近い状況(攻城戦はより単純な兵力差が影響する)を感じ取った信玄以来の重鎮たちは撤退を進言したという。但しこれについては勝頼の独断専行が果たして可能であったか疑問視する向きもあり、武田家の総意による開戦であるとの意見もある。

戦略的理由としては武田と織田の国力差から早期決戦が武田家にとって必要不可欠であったことから、戦術的理由としては鳶ノ巣砦の攻撃により武田勢は退路を断たれ包囲される恐れがあったことから、連合軍に対して決戦を仕掛けるか、戦略的敗北とある程度の損害覚悟で退却かの選択しかなかった。

天正3年(1575年)5月20日、勝頼の選んだ選択は織田との決戦であり、翌5月21日早朝に開戦することとなった。

5月21日、午前6時頃から午後2時頃まで戦闘は続けられ、その中で山県昌景土屋昌次らが戦死、その後、武田軍は総崩れとなり、敗走する中で馬場信春内藤昌豊原昌胤真田信綱昌輝兄弟等が戦死した。また鳶ノ巣砦の攻防戦で川窪兵庫三枝守友が、その後の長篠城近辺の戦闘で高坂昌澄が戦死している。この敗北で、武田軍は1万人以上もの死傷者(一説には武田家1000、織田徳川連合軍600の損害)を出したと言われている。

[編集] 御館の乱

長篠の戦いで敗北を喫し多くの有力武将を失った武田に対し、織田信長・徳川家康の反攻は更に積極的になる。長篠合戦後、信長は嫡男・信忠を総大将として東美濃岩村城を攻めさせ、これを奪還し、城将である秋山信友を討った。家康も依田信蕃を降して遠江二俣城を奪還した。

これに対して勝頼は武田軍団の再建を目指した。天正5年(1577年)、父の宿敵であった上杉謙信と同盟を結んだ。また同年、後北条氏との関係をさらに深めるため、北条氏政の妹を正室(遠山夫人は信勝出産後死亡)として迎えた。

翌、天正6年(1578年)、謙信が病死すると、謙信の二人の養子である上杉景勝(謙信の甥)と上杉景虎との間で御館の乱が起こる。御館の乱が勃発した当初は、同盟者である北条氏政の弟(遠縁との説もある)であり北条から上杉に養子として出されていた上杉景虎(旧名・北条氏秀)の支援を目的として軍事行動を行っていたが、その後、上杉景勝の支持にまわった。その理由として、上杉景虎は、同盟するなら北信濃一帯及び、上野沼田一帯の譲渡を求めたのに対し、上杉景勝は軍資金に困窮していた武田家に2万両とも云われる黄金を支払い、上野沼田城を譲ると言っていたという。領土の譲渡を求める上杉景虎支援に賛同する家臣はなかった。これが上杉景勝支援に転身した理由であるが、武田家臣自らが場当たりの利己主義で武田滅亡の遠因を作ったともされる。その一方で、景虎が上杉氏を継いだ場合でも将来的に武田領が北条勢力によって南北から挟撃される危険性もあり、選択肢がなかったとする見方もある。

武田家が景勝と和睦し越後を去った結果、戦いは景勝が勝ち、景虎は自害した。この上杉家中の内紛で勝頼は北条氏政の要請から当初景虎を支援したが、後にこれを破棄して景勝を支持した。このため、同盟者であった北条氏政までも敵に回すことになる。こうして勝頼は西に信長、南に家康、東に氏政という3大勢力に挟まれる事態に陥った。

織田・徳川に加え、北条さえも敵に回してしまったのは結果的には致命的な失策となった。しかし、この間の北条氏政の行動は消極的であり、同盟者として信を置くに価しないとする勝頼擁護の意見もある。また景勝との講和にあたり跡部勝資長坂光堅両人が賄賂を受け取ったという逸話があるが、景勝との交渉は信濃方面の責任者・武田信豊が行っていることから俗説である可能性が高い。

[編集] 武田家滅亡

天正9年(1581年)、徳川軍の攻撃によって高天神城は窮地に陥るが、もはや勝頼には後詰することが出来なかった。高天神城落城は武田家の威信を大きく下げることとなり、国人衆は大きく動揺した。これを境に織田・徳川からの調略が激しくなり、日頃から不仲な一門衆や日和見の国人の造反も始まることになる。

勝頼はやがて近い将来攻め込んでくるであろう織田・徳川連合軍への備えのため、躑躅ヶ崎館より強固な韮崎の地に新府城を築城して防備を固めるとともに、武田軍団の再編成を目指した。しかしそのために膨大な軍資金を支配下の国人衆に課すことになり、皮肉にも却って国人衆の造反を招く結果となった。尚、国人衆の反発は勝頼の中央集権化を目指した政策に原因があるとする意見もある。

天正10年(1582年)2月には、信玄の娘婿で外戚の木曾義昌が新府城築城のための負担増大への不満から織田信長に寝返り、450年の歴史を誇る名門・武田氏は滅亡への道を歩み始めるのである。

勝頼は外戚の木曾義昌の反逆に激怒し、即座に木曾討伐の軍勢を送り出した。しかし雪に阻まれ進軍は困難を極め、地理に詳しい木曽軍に翻弄された。その間に織田信忠が伊奈方面から、金森長近飛騨から、徳川家康が駿河から、北条氏直が関東及び伊豆から武田領に侵攻してくる。

これに対して武田軍では組織的な抵抗ができなかった。勝頼の叔父・武田信廉は在城する対織田・徳川防戦の要であった大島城を捨て甲斐に敗走し、信濃伊那城においては織田軍が迫ってくると城主・下条信氏が家老によって追放され、織田軍を自ら迎え入れてしまった。信濃松尾城主の小笠原信嶺駿河田中城主の蘆田信蕃らも織田・徳川連合軍の侵攻を前に戦わずして降伏する。さらに武田一族の重鎮である穴山信君までも勝頼を見限り、徳川家康を介して織田信長に服属を誓った。これにより武田氏に属する国人衆は大きく動揺する。

この情報に接した武田軍の将兵は人間不信を起こし、疑心暗鬼に苛まれた将兵は勝頼を見捨て、隙を見ては次々と逃げ出したのである。唯一、抵抗らしい抵抗を見せたのは仁科盛信が籠城する高遠城だけであった。

同年3月、勝頼は未完成の新府城に放火して逃亡した。甲斐の有力国人で一門衆の小山田信茂と、信濃国人である真田昌幸が、勝頼を受け入れることを表明した。勝頼が選んだのは武田家の本領である甲斐国人・小山田信茂の居城である岩殿城であった(注:小山田氏の居城は谷村城で、岩殿城は小山田領内の武田家直轄の城であるという説もある)。しかし、信茂は織田信長に投降することに方針を変換し、勝頼は進路をふさがれた。後方からは滝川一益の追手に追われ、逃げ場所が無いことを悟った勝頼一行は武田氏ゆかりの地である天目山を目指した。

しかしその途上の田野でついに追手に捕捉され、嫡男の信勝や正室の北条夫人とともに自害した(天目山の戦い)。享年37。これによって、甲斐武田氏は事実上滅亡した。

江戸以降に再興する武田家は勝頼の兄で盲目のため出家していた次兄・海野信親の系譜である。

[編集] 辞世の句

「おぼろなる月もほのかに雲かすみ 晴れて行くへの西の山のは」

[編集] 研究

[編集] 人物・逸話

対徳川氏・対北条氏との戦いなどで見せる戦術の機敏さや武勇等の華々しい戦果は、猛者の多い武田家の古参の武将達と比べても遜色ない。

  • 永禄12年(1569年)の武蔵滝山城攻めでは、総大将でありながら最前線で戦い、二の丸まで攻め落とす。
  • 同年駿河蒲原城攻めでは、巧みに城兵を誘い出し、北条新三郎等の名のある武将を討ち取り攻略している。
  • 翌永禄13年(1569年)の駿河花沢城攻めでは、長坂釣閑斎・名和無理介・諏訪越中・初鹿野伝右衛門らと激しく矢玉が行き交う中、城門に取り付いた話が伝わる。
  • 天正2年(1574年美濃に侵攻すると、瞬く間に明智城とその支城18城を落とす。
  • 天正7年(1578年北条氏政と駿河で対陣中、徳川家康に後方を衝かれると、正面の北条軍を放置したまま軍を反転、徳川軍へ急進した。その軍移動の迅速さに北条軍は追撃も適わず、徳川軍は武田軍の勢いを恐れて大井川西方へ退却した。
  • 天正9年(1580年上野膳城攻めでは甲冑を着けるのもままならず城を急襲し攻略したため、「素肌攻め」の伝説を残す。

このような軍歴から、甲陽軍鑑中において「強すぎる大将」と評された。

  • 信玄すら落とせなかった高天神を攻略した勝頼の名は轟く。しかしこの大戦果が同時に勝頼の自信過剰に繋がったとも言われる。但し当時の戦国大名は領土の拡張=国人・家臣に対する恩賞の確保という面から勢力拡大し続けなければならないという組織の構造上の問題もあるため、拡大路線は止むを得ないと見る意見もある。
  • 重臣の中には先代の言葉を守らない勝頼の血気を憂える者もあり、戦勝の祝宴の席で高坂昌信は、「この盃こそ御家滅びの盃」と洩らしたという。しかし、実際には信長から謙信へ「武田四郎は信玄の言付をよく守り、表裏の進退も巧く油断できない」と言う意味の手紙が送られており現存することから、この発言は俗説の域を出ない。
  • 母は信玄が滅ぼした諏訪頼重の娘であったことから、当時の人々は勝頼のことを復讐をなす呪いの子と恐れたとされている。

[編集] 武田家の内部問題

甲斐国人衆から信玄子飼いの部将、そして親類衆や勝頼側近等へと武田家家臣の重心が移り行くなかで、体制の変動をうまく成し得なかった武田家の構造的な問題も検証されるべきであろう(注:武田家中における家臣団の分類は下記の内政・派閥参照)。その意味で、当主や家臣団(武田軍団)が優秀でも、時代の流れには乗り切れなかった戦国大名ということになるかも知れない。

信玄の治世はカリスマという語で表わせられるような説明不能の体制ではなく、配下の各勢力の利権を保障して個々の能力を活用するという、卓越した信玄の能力に拠っていたと考えられるが、これは問題の根本的解決=中央集権化が不可能であった結果であるともいえる。信玄時代と勝頼の時代では周囲の状況は大きく変化した。敵対する勢力の多くが自勢力と同等以上の国力を持ち、その中でも織田氏は突出した大勢力であった。その織田氏と抗争しながら信玄が遣り残した中央集権化という厄介事を勝頼がせざるを得なかった。

一説に、勝頼は武田家の正式な当主ではなく、あくまで世継の武田信勝の後見人という立場であったといわれる。所謂勝頼陣代説であるが、一次資料の裏づけが無いことから、俗説であると思われる。しかし、一度は諏訪氏を継いだ勝頼を、所詮よそ者、元同輩と侮る家臣もいたようである。

武田氏自体が甲斐の絶対君主などではなく、国人領主の盟主という不安定な基盤に立っていた。事実、勝頼の父信玄も国人領主の支持を集めることにより信虎を追放し、武田氏の家督を継いだ。また、勝頼の長兄義信は国人領主の支持を集めることができずに廃嫡され、自害に追い込まれている。信玄は信濃を支配下に置く時も信濃の国人領主を極力味方に引き入れ、武田氏と利益を共有する「利益集団」的な体制を組んでいる。武田氏の勢いが良い時には固い結束があっても、いったん綻びが見え、利益の共有が危うくなると雪崩をうって崩壊してしまった。

[編集] 内政

家督相続後に父・信玄時代の国人・家臣の利権の追認等行っており、巷間言われるように内政に全く目を向けなかったわけではない。西上作戦のために信玄が多くの諸役免状等を発行しており、自らの支持基盤の脆弱な勝頼では、この既得権益に対して直ぐに干渉することは不可能であったと思われる。

織田家との対抗上軍制改革を行う必要があったため、中央集権化を断行している。即ち寄親寄子制度の寄子を直接武田家の影響下に置くことである。しかしこれは寄親の既得権益を直接脅かす行為であるため、寄親(国人)の強い反発を受けた。寄親にとって寄子は自らの支持基盤であり、政治力を裏付ける軍事力の根源である。例えば武田家の場合、寄子は訴訟を行う場合でも寄親を通して行う程密接な関係である。寄子を取り上げられることは、国人衆(親類衆も含め)の勢力を弱めることに直結するからである。しかし国人衆の発言力の低減に直決することでもあり、武田家による領内の統制を強める意味でも必要なことであった。

結果的には中央集権化の断行が、勝頼と国人衆との間の溝を広げ甲州崩れの原因となった。しかし、豊臣政権下の上杉氏の例でも判る通り(謀反・粛清・出奔が頻発)中央集権化の断行は必ず内部の対立を伴うものであり、全てを勝頼の責として問うことは出来ない。当主の支持基盤・権力・国人の勢力の強弱、中央集権化を受け入れる土地柄、などの要素によって強く影響されるからである。困難な時期に中央集権化を行わなければならなかった点に、勝頼の不運がある。

長篠の戦以降、東海道方面への度重なる出兵等から武田家の経済状況は逼迫する(信玄晩年期には既に逼迫していたとの説もある)。これに対し勝頼は有力な豪商を蔵前衆にするなどして財政の立て直しを図った。甲陽軍鑑ではこれをかなり強い調子で非難しているが、江戸時代の諸藩の財政建て直しにおいての豪商の役割を見れば、全くの的外れであることがわかる。

金山に関してであるが、武田家は直接管理していない。金堀衆に諸権益を保障することによって採掘していた様である。

上記の様に、勝頼はかなり軍政(=軍事政権による内政)に心を砕き、軍制の改革を試みていた様である。但し、下記の如く複雑に絡み合う派閥間の中で、しかも支持基盤の弱い状況で、改革を強力に推し進めるのは非常に難しいことである。

[編集] 派閥

武田家の信玄期・勝頼期の派閥は以下の通り。かなり複雑である。

  1. 譜代国人衆(板垣信方甘利虎泰飯富虎昌等)晴信(信玄)を擁立してクーデターを起こしたグループ。
  2. 信玄子飼いの侍大将の内で竜朱印奏者(山県昌景原昌胤土屋昌次跡部勝資
  3. 信玄子飼いの侍大将の内で重要拠点の城主(馬場信春春日虎綱内藤昌秀秋山信友
  4. 勝頼子飼いの侍大将(秋山紀伊・安部勝宝・小原丹後等)
  5. 親類衆(穴山信君典厩逍遥軒一条信龍等)
  6. 国人衆(長坂釣閑斎・今福浄閑斎・駒井右京等)
  7. 奉行衆(跡部勝忠、昌忠・市川昌房等
  8. 外様衆(小幡虎盛原虎胤多田満頼横田高松山本勘助等)武田の5名臣。他国から招聘された者で、武田家直轄の足軽の指揮等を行う。
  9. 先方衆

権力の変遷は、信玄初期1→信玄中期~後期2(+3)→勝頼長篠前2+4+5+6→勝頼長篠後2の子弟+4+5+6となる。特に信玄後期から勝頼期については、竜朱印状(武田家における行政公文書)の発行者とその数によって当時の状況が伺える。尚、真田氏など箕輪城代になるなど準譜代の扱いを受けている者や、信玄子飼いでありながら勝頼に近い跡部勝資などの特別な例もある。

上述の様に複雑に派閥が存在する武田家において、長篠の戦以前の支持基盤の弱い勝頼の独断で武田家を指揮(長篠の合戦の開戦等)出来たかは甚だ疑問である。

所謂宿老と言われる部将も親族衆・国人衆・信玄の旗本出身者等出自も一様でなく、その中で信玄子飼いと言われる武将においても、組織の中枢にいる者と最前線の責任者とでは立場も微妙に異なるため、一概に勝頼対譜代家臣の対立と言う図式は当てはまらない。

派閥の多い武田家中において、子飼の武将を育てる時間も無く強大な敵と戦わねばならなかったのは不幸であった。結果、多くの内紛・内部対立を残したまま、戦場へ向かった。

[編集] 勝頼と武田家を取り巻く状況

長篠の戦い(設楽ヶ原の戦い)は、信玄の戦略方針を継承するのであれば何れ不可避な戦いであり、寧ろ開戦時期が遅きに失した感すらある。武田家を取り巻く環境、特に織田包囲網の外線勢力の衰退や、武田家と織田家の国力の格差・経済成長・勢力伸張の度合いを考慮すれば、可能な限り早い段階で雌雄を決しなければならないのは武田家の方であり、武田家にとっては長篠から撤退すること=戦略的敗北を意味する。戦略的には開戦時期は武田家が織田家と決戦出来るぎりぎりの時期であったと見る向きもある。また戦術的にも無策であるとはいえない。翼包囲を意図した戦術であり、仮に山県乃至は馬場の両翼何れかが敵前線を迂回突破することが出来たなら、武田の勝利の可能性も十分にあったのである。カンナエの戦いプロシアフリードリヒ大王の戦いなど劣勢の軍が優勢な軍を打ち破った例も多い。但し両翼が迂回突破する以前に自軍中央が崩れると両翼の部隊が孤立するため大損害を蒙る場合もある。設楽ヶ原の戦いは正にこれに該当する(翼包囲とは軍事用語の一つで、一般的語彙の「包囲」を意味する語ではないことに注意)。 諸般の事情があるにしろ、長篠の戦い以降は東海道方面において武田家はその滅亡まで決戦を成し得なかった。

早い時期から鉄砲の有効性を認識してきた武田家であるが、長篠の戦い後には更に鉄砲を重視し、現存する軍役定書にも「とにかく鉄砲を用意するように」と記されている。

織田信長から同盟復活を求められた。だが勝頼と家臣はこれを嫌って拒否し、上杉謙信と同盟を結んだ。織田と組むべきだったか上杉と組むべきだったか、勝頼の評価を難しくしている原因の1つである。しかし義信事件を見ても判るように、戦国大名家において戦略転換を行うことは、国人領主等の権益のぶつかり合いの側面もあり簡単なことではない。

織田・徳川との戦争に明け暮れた勝頼だが、度重なる出兵を行うという事は、税・兵役・労役などの負担を領内の豪族や民に強いるという事でもある。武田領内は怨嗟の声で溢れかえり、一揆が多発した。これらが武田家の末期に、家臣が雪崩式に勝頼のもとから去っていった主因となったともいわれる。国人衆は家臣ではなく、忠義の観念の比較的薄い戦国時代においては、現実主義的日和見者である国人衆は劣勢の場合裏切って当然の存在であり、そうでない場合でも経済的に苦しい場合など有力な者は出兵拒否などする。食糧生産の不足がちな甲斐では飢饉が多発した。この際の信玄時代の外征は人身売買を含めた大規模な略奪を伴い、参戦した国人は大いに利益を得ていた。また、勝頼時代に負担が増えたといっても、武田家の重税は信玄時代からの伝統である。

武田勝頼の戦国大名当主・武将としての資質は優秀な部類に属すると思われるが、如何せん自らの出自・武田家の内部事情・周囲の状況等の条件が劣悪であった。地政学上、甲信地方は濃尾・関東に比べて不利である。人口も少なく石高も低い。人口が少ないということは兵力となりうる余剰人員が少ない、また経済規模が小さいということを示す。全体的な大きな流れとしては、何れ濃尾・近畿勢力か関東勢力に侵食される可能性が高い。結果として武田家滅亡時の当主であるため亡国の将であると言う批判は避け得ないが、その事績は今後再評価されていくものに値すると思われる。

[編集] 甲陽軍鑑の記述

信憑性に疑問ももたれる史料ではあるが、『甲陽軍鑑』において勝頼は「常に短気なることなく、喧狂におわしまさず、如何にも静かで奥深く見え奉る」と評されている。

勝頼が信玄時代からの百戦錬磨の老臣の意見を軽視した事や、跡部勝資長坂光堅ら近臣を重用してしまった事が武田家に深刻な内紛を産んでしまったと甲陽軍鑑は主張する。しかし、当時の勝頼の立場を考えれば、老臣の意見を無視したというよりも、寧ろ親類衆・老臣たちの意見に翻弄されたと見るべきである。勝頼の脆弱な支持基盤から強権を発動できるとは考えにくい。内紛の原因は信玄時代からあり(特に義信事件)、燻っていたその感情が勝頼時代に噴出した感がある。また跡部・長坂両人であるが勝頼時代に取り入った悪臣とすることが多いが、長坂は信玄時代に諏訪郡代であったり、跡部はそもそも信玄子飼いの武将であり信玄存命時から竜朱印奏者であった。以上から信玄時代から重用されていたことがわかる。また、近年では長坂は天目山で殉死したという説が有力である。この両人の評価に関しては甲陽軍鑑の記述に拠るものが多く信を置けない。

[編集] 諸説

武田信玄の用兵を導入した徳川家にとって、武田家の武威を讃えることは、その武田家に勝った徳川家の武威の偉大さを同時に世に知らしめることになるため、重要なことであった。しかし武田家が滅んだ理由を徳川家に求められないよう、勝頼に責を押しつけた感もある。同時に、織田信長の援軍によって武田家を滅ぼすことができたことを覆い隠すために織田信長を一流の武将ではないとする評価を定着させる必要にも駆られた(信康切腹事件、姉川の戦いにおける浅井勢の奮戦、など)。

高野山に現存する武田勝頼の肖像画のレイアウトは、上座に勝頼・下座に信勝と北条夫人という構図であり、非常に珍しいものである。この肖像画、陣中より愛妾に送った手紙や北条夫人の祈願文の内容から判断すると、武田勝頼は愛情の細やかな人であったようである。

[編集] 家系

嫡男に信勝がいたが、1582年に父と共に死んでいる。他に娘もいたが、詳細は詳しく分かっていない。娘の一人は、武田信豊の子と結婚している。

[編集] 関連項目

甲斐武田氏歴代当主
1573~1582
先代:
武田信玄
次代:
武田信勝
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