御館の乱
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御館の乱(おたてのらん)とは1578年の上杉謙信急死後、その家督をめぐって謙信の養子である上杉景勝(実父は長尾政景)と上杉景虎(実父は北条氏康とも北条一族の者とも云われる)との間で起こった越後の内乱である。御館とは上杉謙信が関東管領上杉憲政を迎えた時にその居館として建設した関東管領館である。春日山城下に設けられ後に謙信も政庁として使用した。
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[編集] 概要
天正6年(1578年)の旧暦3月13日、上杉謙信は脳卒中で死亡した。謙信は生前に後継者を決めていなかったため、二人の養子景勝と景虎が後継を争うことになった。同月15日、景勝は春日山城の本丸、金蔵、兵器蔵を接収し、三の丸に立て籠もる景虎に攻撃を開始した。その後膠着状態が続いたが、5月13日には景虎が三の丸から退去し、御館に移り籠城して北条氏政に救援を要請する。氏政は救援軍を編成するが、越後までは遠いために同盟の武田勝頼に景虎への助勢を要請した。これを受け、勝頼は5月29日に大軍を率いて信濃経由で越後を目指す。形勢が不利になった景勝は黄金一万両と上杉氏支配下の上野沼田を譲渡を提案して和議を申し入れた。勝頼は、北条勢の動きが遅いことや徳川家康が来襲したこともあり、6月7日に景勝と和議を結んで撤兵する。9月にはいると北条氏照、氏邦が越後に侵攻したが春日山までの進軍は果たせない。外部勢力の干渉を排除し、家中の支持を集めた景勝は、翌年2月11日御館の景虎を攻める。雪に阻まれて北条勢からの救援も望めず、3月17日に御館は落城する。景虎は、小田原に向かって逃亡中に、鮫ヶ尾城に寄ったところを景勝に寝返った城主堀江宗親に攻められ自害した(3月24日)。この、越後を二分した内乱は景勝が勝利し、謙信の後継者として上杉家の当主となった。なお、謙信の養父である上杉憲政は景虎を支援していたが、天正7年旧暦3月18日に和議を求めて景虎の長子道満丸を連れて景勝の陣に出頭するところを暗殺された。彼の息子達も殺害されてしまい、山内上杉氏の血統は断絶した。
[編集] 上杉家中の去就
[編集] 景勝方
[編集] 景虎方
[編集] 周辺への影響
戦後に与えられた恩賞に不満を持った景勝の重臣・新発田重家が織田信長に通じて反乱を起こし、独立した。また、この内乱の隙を突き、信長の命を受けた柴田勝家が上杉領である加賀や能登、越中を席捲し、会津からも蘆名盛氏が侵攻してくるなど、この御館の乱は謙信時代に培われた上杉家の勢力と威信を大きく衰退させたのである。
御館の乱は、武田家滅亡の遠因でもあった。北条氏政は、実弟(近親者と言う説もある)の景虎への支援を同盟者の武田勝頼に依頼した。当初、勝頼は景虎を支援して自ら出陣したが、その後景勝支援に回る。その理由として、隙をついた徳川家が領国(駿河方面)に侵攻してきたこと、北条氏の景虎救援の動きが鈍く消極的なことから、同盟者としての信頼が揺らいだこと、景虎の勝利により北条家が勢力を拡大させることを警戒したこと、景勝が黄金を差し出し、上野沼田領の譲渡を申し出たこと等が挙げられる。これに対し越後の豪族達の支持を得る必要性があった景虎は、逆に勝頼に北信濃等の譲渡を求めていた。これにより武田家中では景勝との和睦を支持する声が強まり、結果として勝頼は景虎を裏切って景勝と和睦に踏み切り、景勝に自分の妹の菊姫を娶わせた。
同盟者・勝頼の背信に激怒した氏政は第二次甲相同盟を破棄して織田・徳川と同盟する。これにより上杉氏の国力が疲弊する間に武田氏は三方に敵を迎える。関東・伊豆方面では北条氏を圧倒した勝頼であったが、度重なる東海道方面への出兵は武田家の経済状況を逼迫させ、武田家の弱体化の大きな要因の一つとなった。
[編集] 関連項目
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