シチリア
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シチリア州(シチリア自治州) Regione Sicilia, regione autonoma a statuto speciale |
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一般情報 | |
国 | イタリア |
地域 | イタリア島嶼部 |
州都 | パレルモ |
面積 | 25,710 km² |
人口 | 5,087,000 人 |
人口密度 | 198 人/km2 |
県 | アグリジェント、カルタニッセッタ、カターニア、 エンナ、メッシーナ, パレルモ, ラグーザ、シラクーザ, トラーパニ |
コムーネ数 | 390 (一覧) |
州知事 | Salvatore Cuffaro 2005/04/04から |
位置 | |
公式Webサイト | |
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シチリア(伊: Sicilia)は、シチリア島または、その周辺の島を合わせたイタリア共和国の特別自治州シチリア州 (Regione Sicilia)の通称である。
シチリア島は地中海最大の島で、面積は25,420km2である。 島は英語由来のシシリー(島)とも呼ばれる。
シチリア州はイタリア最大の州で、国全体の12分の1弱の面積を占めている。 州旗にあるシンボルはトリナクリア(Trinacria)と呼ばれ、メデューサの顔と3本の素足からなる。足はパレルモ、メッシーナ、シラクサの岬を表すとされる。トリナクリアはシチリアの古名でもあり、ギリシア語の「三つの岬」に由来する。
目次 |
[編集] 地理
州の面積の大部分はシチリア島が占める。シチリア島にはエトナ火山があり、カターニアの近くに位置する。
北方のエオリア諸島、西方のエーガディ諸島、北西のウスティカ島、南西のペラージェ諸島は、シチリア島と同じ行政区分に属する。ただし南方のマルタ島は、マルタ共和国という別の国となっている。
シチリア島は、二千年以上前から穀物をはじめとする農作物の生産地である。なかでもオリーブとワインが特産品である。カルタニッセッタ県は、19世紀、硫黄の一大産地であったが、1950年代以降、産出量は減り続けている。
また、イタリア本土とシチリア島を結ぶ、メッシーナ海峡大橋を建設する計画があったが(2015年完成予定)、2006年に計画は中止されている。
[編集] 歴史
紀元前8世紀、ギリシャによる植民が開始された。古典ギリシア語ではシケリアと呼ぶ。紀元前734年頃、シケリア最大の植民市となったシュラクサイ(現在のシラクサ)の他、ゲラ、アクラガス、セリヌス、ヒメラ、メッシーナ、レオンティノイなどの植民都市が建設された。これらの都市は、古代ギリシャの重要な一部となっていた。ギリシャの学者として有名なエンペドクレスやアルキメデスはこの島の出身である。
紀元前431年にペロポネソス戦争が起こると、イオニア系植民市とドーリア系植民市の抗争が激化し、アテナイがこれに介入を図った。これに対しシケリアの全都市の代表は紀元前424年ゲラに会合し、シケリア以外からのいかなる干渉をも排することを盟約した。だが、敵国であるコリントスとの経済断交を求めてアテナイはシケリアへの遠征を試み、紀元前415年シュラクサイ(コリントス系植民都市)を包囲したが、スパルタからの援軍によって紀元前413年アテナイ軍は撃退された。
その後、ヘレニズム期において、ギリシャはカルタゴと戦争状態に入った。カルタゴは、シチリア島の南西のそれほど遠くないアフリカ本土にあり、シチリア島に植民都市もあった。第一次シチリア戦争と第二次シチリア戦争において、カルタゴはシチリア島からギリシャを駆逐しようとし、両軍が多大な犠牲を払った。第三次シチリア戦争で、カルタゴはシラクサとメッシーナが支配する島の東部を除いた他の領域を支配下においた。
紀元前256年、シラクサに侵攻されたメッシーナは、ローマに救援を求め、これがローマとカルタゴによる第一次ポエニ戦争の発端となった。戦争の終結する紀元前242年には、シチリア島全域がローマによって占領された。第二次ポエニ戦争でのカルタゴの初戦の快進撃によって、シチリア島の諸都市はローマに反乱を起こし始めたが、ローマは軍団を派遣し、これを鎮圧し、(シラクサの包囲戦の最中にアルキメデスが殺害された)最終的にカルタゴはシチリア島から追い払われた。
紀元前210年にローマの執政官M・ウァレリウスが元老院に向かって述べた「一人のカルタゴ人もシチリア島に生かしてはならない」という言葉通りに、シチリア島のカルタゴ寄りの人々が多く殺された。このあと、6世紀の間、シチリア島はローマ帝国の属州であった。僻地の田舎のような扱われ方だったが、シチリア島の農作物はローマ市にとって重要な食料供給源であった。強いてローマ化しようとはしなかったので、島はギリシャ時代の様子を多く残していた。 有名なウェレスの悪政があったのもこの頃の紀元前73年から紀元前71年にかけてである。
440年、ヴァンダル人の王ゲイセリックがシチリア島を占領した。その数十年後、東ゴート人が侵入してきたが、535年、東ローマ帝国の派遣したベリサリウス将軍によって征服された。しかし、東ゴート王国の新たな王トティラは、イタリア半島を席巻したのち、550年再びシチリア島を奪取した。
552年、彼はまたもや東ローマ帝国の派遣した将軍ナルセスによって征服され、殺された。シチリア島は、東ローマ帝国の領土となり、662年から668年に皇帝コンスタンス2世が暗殺されるまで、シラクサが帝国の首都であった時期もある。その後、827年から965年に侵入してきたアラブ人によってシチリア島は征服された。イスラム教徒による支配の間には、文化的多様性と宗教的寛容さが保たれていた。
1060年から1090年に至るノルマン人の侵略に続いて、1130年に成立したノルマン・シチリア王国においてもそれは同様であった。1194年から、神聖ローマ帝国のホーエンシュタウフェン家によって統治され、1220年にはパレルモを自分たちの本拠地としている。神聖ローマ帝国と教皇の紛争によって、1266年、シチリア島はアンジュー伯シャルル1世によって征服されてしまう。
1282年、フランスの役人と課税に反対する反乱に対して、「シチリアの晩鐘事件」として知られるフランスによる大虐殺が起きたのち、アラゴン王ペドロ3世がシチリア島を支配下におさめ、スペイン王による支配は1479年まで続いた。1656年には、疫病が爆発的に蔓延し、1693年には島の東側で起きた大地震により大損害を受けている。1713年から1720年まで、サヴォイア公がシチリア王として統治した。1734年、オーストリア帝国のハプスブルグ家が、ブルボン家のナポリ王国と統一させ、両シチリア王国とした。
1820年と1848年に、ブルボン朝に対して、立憲政府を要求する革命運動が起きたが、どちらも失敗に終わった。1860年、ジュゼッペ・ガリバルディの遠征によって統一されたイタリア王国にシチリア島は統合された。1894年、イタリアの労働運動やファシストの運動が激化したため、公秩序維持緊急臨時法が制定された。
イタリア統一後の半世紀にわたる経済発展によって、イタリア北部は大きく都市化されていたが、シチリア島は、産業の発達から取り残されていた。19世紀後半、マフィアとして知られる犯罪組織の影響力が拡大し、シチリア島にも及んでいた。1920年代後半は、ファシスト政権によって抑圧されていた。第二次世界大戦において、連合国によるシチリア島攻略作戦(ハスキー作戦)によって、解放された。1946年、イタリアの自治州となった。
1950年から1962年にかけて、国土の再編成が行われた結果、シチリア島は少し拡張され、1950年には南部開発公庫(1950年‐1984年)から特別資金が当てられている。1992年には、マフィアに反対する二人の治安判事が暗殺され、イタリア政界を揺るがす大事件が起きている。
[編集] 都市
主要都市は州都パレルモのほか、カタニア、メッシーナ、シラクサ、マルサラ、トラパニなどで、町はチェファル、タオルミーナ、ブロンテなど。
[編集] 伝説
伝説では、シチリア島はオリンポス神と巨人族の戦いのときに、アテナが巨人の一人、エンケラドスを封じて投げつけたとされる。
[編集] シチリア出身の人物
- フランク・キャプラ:映画監督
- サルヴァトーレ・クワジーモド:ノーベル賞受賞の詩人
- エットーレ・マヨラナ:物理学者
- ジョヴァンニ・ジェンティーレ:哲学者
- ジュセッペ・トマージ・ディ・ランペドゥーサ:作家
- アンドレア・カミレッリ:作家
- ジョヴァンニ・ファルコーネ:マフィア撲滅を目指した検事
- パオロ・ボルセリッノ:マフィア撲滅を目指した検事
- フランコ・バッティアート:歌手
- ジュゼッペ・トルナトーレ:映画監督
- マリア・グラツィア・クチノッタ:女優
- トマッソ・ゲラシ:彫刻家
- ルイジ・ピランデルロ:ノーベル賞受賞作家。アグリジェントの出身。
[編集] マフィア関連人物
- トマーゾ・ブシェッタ
- ベルナルド・プロベンザーノ
[編集] 外部リンク
- Regione Siciliana Tourism (イタリア語・英語)