旧居留地
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旧居留地(きゅうきょりゅうち)とは、主に安政の五か国条約によってできた外国人の治外法権の区画をさす。兵庫県神戸市と神奈川県横浜市、長崎県長崎市、大阪府大阪市の旧居留地が有名。
(本項は主に現在のエリアについての記述である。居留地廃止(1899年)以前の歴史についての詳細は別項「外国人居留地」を参照)
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[編集] 横浜
- 詳細は、「関内」の項目を参照のこと。
[編集] 大阪
- 詳細は、「旧川口居留地」の項目を参照のこと。
[編集] 神戸
神戸の旧居留地は、北は西国街道、東は生田川、西は鯉川、南は海に囲まれた周囲と隔絶されていた地区で、そこにイギリス人技師J.W.ハートが居留地の設計を行い、整然とした西洋の街を造り上げた。その後東西の川は道路となったが、現在も道路を越えると街の雰囲気が一変する。
明治時代~昭和初期築の主な西洋館・近代建築は日没から22時頃までライトアップされる。 また、仲町通と東遊園地で毎年12月に神戸ルミナリエが開催される。
1980年代までは「老朽化した古いビルのオフィス街」という認識だったが、1988年に起こった旧神戸商工会議所ビルの保存運動が再生のきっかけとなり、その様相を劇的に変えていった。商工会議所ビル自体は破壊されたが、居留地の一角を占める名門百貨店大丸神戸店が自ら所有していた近代建築をLive Lab West(現旧居留地38番館)として店舗化、更には積極的に周辺の近代洋風建築に高級ブティックを出店していった。それによって近代建築オーナーの意識も変わり、「近代建築が点在するのではなく街並みとして、面として存在することの価値」を認識するようになり、LVMHなどの外資も直接参入して今では「最も神戸らしいお洒落で洗練された街」として活況を呈するようになった。市民運動と商業資本のコラボレーションの成功例として、特記に値する。なお、北野町山本通の異人館街が「観光地」であるのに対し、旧居留地は「地元の大人の遊び場」の色が強い。
[編集] 歴史
1868年(明治元年)から1899年(明治32年)の返還までに、外国人に126区画に分けて競売された治外法権の場所であった。やがて、居留地の外国人が山手に住居を構えるようになったのが、北野異人館街である。当時条約未締結国だった清国から神戸に渡ってきた華僑は、居留地には住むことができず、その西側に多く住み着き、南京町といった中華街を築いていった。居留地に対し、これら西側のエリアを雑居地といった。
[編集] 旧居留地内の主な建造物
- 京町筋 - 神戸市立博物館、日本銀行神戸支店、神戸らんぷミュージアム、新クレセントビル、神戸ビルヂング
- 浪花町筋 - 神戸朝日ビルディング、LVMH複合ビル
- 明石町筋 - 旧同和火災神戸支店、ニッケビル
- 播磨町筋 - BLOCK30、THE FORTY-FIFTHビル
- 江戸町筋 - 三共生興スカイビル
- 伊藤町筋
- 北町通 - 高砂ビル、神戸銀行協会
- 仲町通 - 旧居留地38番館、大丸神戸店
- 前町通 - 旧居留地十五番館
- 海岸通 - 商船三井ビルディング、海岸ビル、神港ビルヂング、チャータードビル