張コウ
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張郃(ちょうこう Zhang He 、生年不詳 - 231年)は、中国三国時代の魏の武将。字は儁乂(しゅんがい)。郃の字は合に「おおざと」。子は張雄・他四名。
[編集] 事績
『三国志』によると、冀州河間郡鄚(ばく)の人。若い頃に黄巾の乱の反乱軍鎮圧の募兵に応じて韓馥の配下として活躍した。韓馥の没落後は袁紹に仕えて校尉に任命され、公孫瓉との戦いなどで活躍した功績で、寧国中郎将にまで出世した。200年の官渡の戦いの烏巣攻防戦では曹操の兵が強いことから烏巣の兵糧庫の守将である淳于瓊に援軍を送るよう袁紹に進言するが、同僚の郭図は反対し、総軍で曹操の本営を攻撃するよう進言した。張郃は曹操軍の本営は簡単には落ちないとして異を唱えたものの、袁紹は軽騎兵を烏巣の援軍に送り、大軍で曹操軍の本営を攻撃した。張郃の想像通り曹操軍の本営は落ちず、逆に烏巣の兵糧庫は曹操の手に落ちた。郭図はこれを恥じ、逆に「張郃は敗北を喜び、不遜の言を吐いている」と讒言した。張郃は後難を恐れ、高覧と共に曹操に降伏した。曹操は喜び、「伍子胥は自分が誤った君主に仕えたことに気がつくのが遅かったために不幸な最期を遂げた。君が私に降伏したのは微子啓が殷を裏切って周に仕え、韓信が項羽のもとを去って劉邦に仕えたような真っ当な行動である」として偏将軍に任命し、都亭侯に封じた。
その後は曹操配下の将軍として袁紹の遺領の攻撃に功績を挙げ、さらに207年の烏丸との戦いでは張遼とともに先鋒を務め、その功績で平狄将軍に任命され、以降も各地を転戦した。 211年からの馬超・韓遂との戦いでも武功を挙げ、夏侯淵とともに漢中の守備についた(主将は夏侯淵)。ところが219年、蜀を既に勢力下に置いていた劉備が漢中を攻撃、夏侯淵は戦闘の中で討死してしまい、主将を失ったために全軍が混乱に陥った。そこで夏侯淵の幕僚であった郭淮は「張郃将軍は国家の名将であり、敵将の劉備も恐れている。この事態は張郃将軍をおいて打開できない」と全軍に命令を発して張郃を主将に推薦し、張郃が主将となった。(注に引く『魏略』には劉備は張郃を畏れ、夏侯淵をくみしやすいと考えていた。夏侯淵討死を聞いて「大将は討ち取った、だからといって次の手が繰り出せるわけではない」と言ったとある)。張郃は全軍を励まして動揺から落ち着かせ、諸将もまた張郃の軍令に従った。その後曹操自らが漢中に入って劉備と対峙するもののついに大規模な衝突にはならず、曹操は漢中から撤収した。張郃は漢中から長安の中途にある陳倉に駐屯した。
220年、曹操の子曹丕が帝位について魏の国を興すと鄚侯に封じられた。228年の街亭の戦いで、蜀漢の諸葛亮率いる北伐軍の先鋒大将の馬謖の失策を見抜き、曹真の許しを得て、馬謖を包囲して破り見事に北伐軍を撃退している。その戦功で征西車騎将軍に累進した。引き続き蜀の諸葛亮率いる軍勢を防衛して功績を挙げた。諸葛亮以下蜀漢の将兵はこれ以降、張郃を恐れ憚るようになった。
231年、諸葛亮率いる蜀漢の軍勢が祁山から全面撤退を開始した時に、近くの略陽にいた司馬懿は張郃に追撃するように命じた。『魏略』によると 張郃は「軍法にも敵を囲む際には必ず一方を開けよとある。追い詰められて退却する軍を追撃してはならない」と反発したが司馬懿は聞かず、やむを得ず出撃したところ、蜀軍の伏兵の攻撃にあい、敵の射撃を受ける中で矢が右ひざ(『魏略』では右股)に当たって、それが原因で間もなく死去した。ときの魏の皇帝曹叡(明帝)は歴戦の老将の張郃の陣没を大いに悲しみ、壮侯と諡号を送った。
張郃は魏の諸将の中でもずば抜けた食邑の数を賜っていた。最も多いときで4700戸を有しており、張遼や賈詡といった有名な高官でも最大戸数が1000戸に満たない中、この待遇は破格である。彼がいかに重んじられていたかを端的に示すといえよう。
[編集] 征西車騎将軍について
張郃が拝命したとされる征西車騎将軍という官位は、『三国志』張郃伝においてのみ登場するものであり、征東車騎将軍や征南車騎将軍なども例を見ない。そのためこの記述については、「誤植である」「征西の命を帯びた車騎将軍という意味である」などの指摘がある。なお『晋書』宣帝紀では、張郃は車騎将軍と記述されている。
[編集] 創作作品での扱い
『三国志演義』においても名将として扱われるが、やや熱くなりやすい性格と設定され、蜀の撤退の際には司馬懿が止めるのも聞かず、張郃自らが追撃を主張し追撃したことになっている。吉川英治の小説『三国志』では、その存在をやや粗略に扱われ、3度も討死させられている(一度目は汝南、二度目は長坂の戦い、三度目は原作通り木門道。)。