曹真
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曹真(そうしん、生年不詳-231年)は、三国時代の魏の武将。字は子丹。曹操の一世代下の従子(おい)に当たる。曹邵の子。曹操・曹丕(魏の文帝)・曹叡(明帝)の三代に仕えた。特に曹叡の代には、魏の宗室の筆頭格として重きを為(な)し、また、蜀漢の諸葛亮の北伐から魏の領土を守った。
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[編集] 略歴
[編集] 若き日
『三国志』の曹真伝によると、曹真は曹操の従子とはっきり記されている。彼の父の曹邵(字は伯南)は曹操の同世代の従弟に当たるという。190年に、曹邵はの従兄の曹操が挙兵した時に一族として呼応した。しかし、豫州刺史・黄琬と悶着を起こして殺害されたという(曹邵の項を参照のこと)。こうして、曹操は曹真が年少の身で父を失ったことを憐れみ、自らが引き取って他の子と同じように養い、(おそらく同年代であった)曹丕と起居を共にさせたという。
(また、裴松之が注に引く『三国志』の参考である『魏略』によると、曹真は元来は秦氏で曹操の家臣の秦伯南の子であり、194年頃に秦伯南が袁術に追われた曹操の身代わりになって「わしが曹操だ」と叫んで戦死した。その功績として、息子の真に曹氏と名乗らせたとある)
若年期には猟ばかりしていて、ある日に曹真は虎に追われてしまった。しかし曹真は馬上から後ろ向きに矢を放ち、虎を倒した。曹操はその勇敢さを褒め、自らの親衛部隊「虎豹騎」の隊長とした(以前には曹純・曹休など曹操の一族がこれ務め、「虎豹騎」を率いていた)。
[編集] 魏の重鎮として
正史における目立った軍歴は、偏将軍時代の219年に漢中一帯に攻め込んだ劉備軍を迎撃するために下弁に出陣したところから始まる。翌年、曹丕が魏帝国を興して即位すると、鎮西将軍(高位の将軍職)となり、雍州・涼州の軍事の長官となった。222年には都・洛陽に戻って上軍大将軍となり、大きな軍権を握った。226年の曹丕の死の際には、曹休・陳羣・司馬懿と共に、後を継ぐ太子の曹叡を助けるよう委ねらている。曹叡が即位すると、大将軍となり、邵陵侯に封じられた(裴松之は注で、父の名が入った封地は不自然なので誤りではないかと指摘する)。その後、何度も諸葛亮率いる蜀漢の軍勢が祁山に攻め寄せるが、その都度撃退に成功した。その功績により大司馬となり、帯剣したままの昇殿と、宮殿内で早足で歩かなくてもよいこと(当時の宮殿内では皇族でも臣下は屈んで早足で歩かなければならなかった)を認められた。同時に多くの封地を賜ったが、曹真は若い時に共に曹操に仕えていた従弟の曹遵や同郷で親戚でもある朱讃が早くに亡くなってしまったことを憐れみ、その子らに封地を分け与えるなど、自らの幼い頃の苦労と重ね合わせたように情で報いている。また、恩賞が足りない者がいれば、自らの財産を与えるなどしたと言われている。このため、曹真は将兵から人望が厚く、その率いる軍の団結力も強固なものであったという。230年の秋に再度、諸葛亮が祁山に攻めて来たが、秋の長雨が長引いて停戦状態だったという。結局は蜀漢も魏の両軍とも撤退した。洛陽に戻った曹真は間もなく重病となり翌年春3月に逝去した。生前の彼が寛容で大望を持った人物として元侯の諡号を送られた。
なお、『三国志』「魏書」の王粲伝中に附伝された呉質伝が注に引く『魏略』によれば、曹真は相当に太っていた人物であったため、呉質からそれを酒宴でからかわれて激怒したという逸話が残っている。
[編集] 『三国志演義』における曹真
『演義』における曹真は、宗室の一人の有力者として魏を支えようとするものの、蜀の諸葛亮の圧倒的に優れた知略の前に連戦連敗を喫してしまう。さらに諸葛亮相手に奮戦する同僚の将軍司馬懿と自らを比べ、能力の差に愕然とする。決して暗愚ではなく、かつ人の意見を聞き入れる度量もあるのだが、なまじ聡明なためになおその格差がわかって心中苦しみ続け、しまいに腹心の王双が魏延に斬られるなど心身的に憔悴してしまった。また司馬懿との賭けで負けてしまい、ついには病に倒れ、最後には諸葛亮の罵言の書状を読んだショックで死んでしまった。即ち『三国志演義』の後半のクライマックスである諸葛亮と司馬懿の知恵比べを、「曹真」というごく普通の人物・キャラクタを設定することで、読み手は「実際」に普通の人物から見た両者の人物像が作り易くなってよりストーリーに没入できると共に、話にリアリティを持たせることに成功している。
[編集] 大将軍曹真残碑
時代は下って清朝の道光年間(1821年-1850年)、陝西省西安の郊外で、曹真の業績を称えた石碑が発掘された。石碑は曹真の死亡から数年後の235年-236年の頃の建立と推定され、内容は一部しか残っていないものの、蜀漢の諸葛亮が攻めて来たのを曹真が迎撃したというものである。文章の書体(魏代の隷書)も書道史的に高い価値を持つ。なお、文中の「蜀」と「諸葛亮」の間の文字が削られているが、これは3世紀の建立時には魏の立場から「蜀賊諸葛亮」とあったのを、発掘後に『三国志演義』の諸葛孔明の大活躍を愛する地元民によって、「賊」の字が削り取られたものである。
[編集] 宗室
[編集] 妻妾
- 劉氏 (一説では曹操の側室の劉氏の一族とも)