郭図
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郭図(かくと、?-205年)は、中国の後漢・三国時代の人。字は公則。
潁川の人で袁紹の下にあった。興平二年(195)、献帝の下へ使者として派遣され、冀州にもどるや、袁紹にこれを迎えることを勧めたが受け入れられなかった。200年の官渡の戦いでは、袁紹らの中央軍とは先に黄河を渡り攻め進んだ。官渡に至って、敗戦が濃厚な中、張郃に責任を押し付け、多くの讒言をしたと言われているが、真偽の程は疑わしい。
202年、袁紹が死去するとその長男である袁譚を後継者に推戴し、袁譚と袁尚の間で内紛を起こす一因を作ってしまう。袁譚は袁尚と対立する気はそれほどなかったが、実質的に影響力のあった郭図に逆うことができず、涙したという。
205年、袁譚が曹操に攻められたとき、共に殺された。