馬謖
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馬謖(ば しょく 190年 - 228年)は、字は幼常。中国三国時代に蜀に仕えた武将。襄陽宣城(湖北省宜城県)の出身。襄陽の名家である“馬氏の五常”と中の五男(末っ子)として誕生した。白眉で知られた馬良の末弟。ちなみに馬謖の兄達の字は『伯常』・『仲常』・『叔常』・『季常』などの特徴を持っていたという。
[編集] 略要
[編集] 生涯
217年頃、荊州従事として蜀に入り、劉備に仕え始める。その才能は諸葛亮を初め多くの武将達に高く評価され、各所の県令・太守を歴任することとなる。特に戦術を得意とした。また、馬謖自身も諸葛亮を「尊兄」と呼び忠誠を誓った。ただ、劉備は彼を信頼せず、白帝城で臨終する間際にも、「(馬謖はかつての趙括のような)口先だけの男であるから、決して重用するでないぞ。」と諸葛亮に厳しく念を押したといわれる。しかしながら諸葛亮は劉備の死後、彼の才能を愛しており参軍に任命している。
224年の春に、建寧郡の豪族の雍闓(=ガイ、門の中に豈)らが西南夷の有力者の孟獲を誘って謀反を起こした。馬謖は「城を攻めるは下策、心を攻めるが上策」と助言を求めた諸葛亮に提案し、これが結果的に七縱七禽などの作戦に繋がり、結果的に南征の成功と蜀の後背地の安定に寄与した。
228年春3月に諸葛亮は第一次北伐の際、彼に糧道の要所である街亭(甘粛省安定県)の守備を命じた。諸葛亮は道筋を押さえるように命じたが、馬謖はこれに背き山頂に陣を敷いてしまう。副将の王平はこれに異議を唱えるが、馬謖に教養の無いことを罵倒されたために止むなく別行動を取った。
その結果、馬謖の行動を読み取った歴戦の老将である張郃(=コウ、合+阝)らに水路を断たれ山頂に孤立した。夏4月に食糧難に陥った馬謖は玉砕覚悟で討って出たために、蜀軍は魏軍に惨敗を喫すこととなる。翌5月に諸葛亮は敗戦の責任を問い、馬謖を軍規に基づいて処刑する。手塩に掛けて育てた優秀な人材だったために、諸葛亮は処刑された彼を見て号泣したとされる(劉備の遺言にそむいて重用したことを後悔したためとの説もある)。これが後に「泣いて馬謖を斬る」と呼ばれ有名となった。なお、馬謖の武将だった李盛と張休も連座されて共に処刑された。また参軍の陳某(陳寿の父で陳式の子とされる)は本来なら処刑の対象だったが、諸葛亮の寛大な措置で髠刑(=コン刑、剃髪の刑で宮刑に次ぐ厳重な処罰だという)に処されただけで済んだという。
諸葛亮はこの責任を取って自ら丞相から右将軍に降格した。なお、馬謖の遺族は処罰されることはなく、事件以前と同様に扱われたという。