小坂憲次
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小坂 憲次(こさか けんじ、1946年3月12日 - )は、日本の政治家、自由民主党所属の衆議院議員(6期目)。第3次小泉改造内閣において文部科学大臣に就任し、初入閣。元総務副大臣、党国会対策委員会筆頭副委員長。所属派閥は津島派。
生年月日 | 1946年(昭和21年)3月12日 |
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出生地 | 長野県長野市 |
出身校 | 慶応義塾大学法学部法律学科卒業 |
学位・資格 | |
前職・院外役職(現在) | 日本航空 中曽根康弘秘書 |
所属委員会 ・内閣役職(現在) |
元・文部科学大臣 |
世襲の有無 | 4世 曾祖父・小坂善之助 祖父・小坂順造 父・小坂善太郎、叔父・小坂徳三郎 |
選出選挙区 (立候補選挙区) |
長野1区 |
当選回数 | 6回 |
所属党派(現在) | 自由民主党(津島派) |
党役職(現在) | 長野県連会長 |
会館部屋番号 | 衆議院第一議員会館219号室 |
ウェブサイト | 小坂憲次オフィシャルウェブサイト |
目次 |
[編集] 経歴
長野県長野市出身。慶応義塾高等学校を経て、1968年、慶応義塾大学法学部法律学科を卒業し日本航空に入社。1984年に退社し、長野市に帰り政治活動を開始。1986年に中曽根康弘総理・自由民主党総裁の秘書となる。
1990年2月、父・善太郎の引退を受けて、衆議院議員選挙に自民党より出馬し初当選。以後連続6期当選。渡辺派に所属、1994年7月には、当時自民党を離党するか否かで迷っていた渡辺美智雄の先兵として自民党を離党し、新生党結成に参加した。その後は同じ長野県選出の羽田孜元首相の側近として、新進党、太陽党、民政党と行動を供にする。しかし、1998年の民主党結成には労働組合との政治理念の違いを理由に不参加。1998年に社会民主党が連立内閣を離脱すると同時に自民党に復党。その後、郵政政務次官、総務副大臣を経て、2005年より文部科学大臣を務める。
アマチュア無線家としても知られており、情報技術政策に精通している。楽天社長・三木谷浩史氏とは親交が深い。
[編集] 小坂家
小坂家は信州の名門で曾祖父の小坂善之助は小坂財閥の創業者で政治家としても活躍。祖父は信濃毎日新聞社主や電源開発総裁を歴任し、善之助同様政治家として活躍した小坂順造。大叔父は元信濃毎日新聞社長の小坂武雄。父は元衆議院議員で外務大臣を務めた小坂善太郎で、叔父は元運輸大臣の小坂徳三郎。大叔母のはる(善之助の次女)は第13代日本銀行総裁の深井英五に嫁ぎ、その長女・結子(憲次の父・善太郎の従姉にあたる)は天体力学の権威で文化勲章受章者の萩原雄祐に嫁いだ。また、元日本テレビ放送網社長で2005年現在日本テレビフットボールクラブの会長兼社長を務める萩原敏雄は萩原雄祐の三男で、憲次の又従兄にあたる。
[編集] 発言
2006年4月7日の記者会見で、石原慎太郎東京都知事が国語力の低下を理由に小学校段階での英語必修化を「全くナンセンスだ」とこき下ろした。そのことにに対して「日本語をしっかり勉強することが基本だが、柔軟な頭脳を持っている児童が英語に親しみ、英語教育に取り組むのは決して否定すべきことでない」と英語教育の必要性を訴えた。
[編集] 公人としての資質
[編集] 失言
2006年2月28日にトリノオリンピック・女子フィギアスケート金メダリスト荒川静香が文部科学省に参加報告に訪れた際、荒川に対し「ロシア選手(イリーナ・スルツカヤ)がコケた時は喜びましたね~」と発言。この模様はTBSテレビのブロードキャスターで放送され、メインキャスターの福留功男をはじめ番組出演者は文部科学大臣の発言としてはいかがなものかという趣旨の批判をした。そして、世論の批判が文部科学省にも多数寄せられ、6日後の3月6日、公式発表として荒川、スルツカヤ両選手に対して謝罪をした。 その後、小坂は自身のホームページで、「ブロードキャスターでは、「コケタ~」発言のみが指摘されて、健闘を称える発言は放送されなかった」という趣旨の意見を掲載した。(のちに、この文章は削除)捏造のTBSといわれる所以がここにある。
[編集] 行動
2006年6月、霊感商法などの反社会的活動の疑いもある統一教会の集団結婚式(天宙平和連合祖国郷土還元日本大会)に祝電を送った事が他自民党議員とともに露見。小坂憲次事務所は祝電送付の事実を認めた。