大川博
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大川 博(おおかわ ひろし、1896年(明治29年)12月29日 - 1971年(昭和46年)8月17日)は、実業家。映画製作者。プロ野球オーナー。東映の事実上の創業者。
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[編集] 来歴・人物
新潟県西蒲原郡加奈居村大字羽黒(のちの中之口村、現新潟市)出身。徳川時代から庄屋を務め、明治期には戸長(村長)という家に生まれる。岩倉鉄道学校、中央大学卒業。中央大学在学中に鉄道院に入る。鉄道省事務官時代は地方鉄道の経理知識に長け、計数管理では省内随一と言わしめた。鉄道省時代の上司に佐藤栄作がいた。
1942年12月、鉄道省の先輩である五島慶太にヘッドハンティングされる形で東京急行電鉄に入社。次長、事業部長、専務をへて、1951年副社長に就任。五島の右腕として大いに辣腕をふるった。この間、大東急分裂騒動に巻き込まれ、分離推進派・非分離派の双方に関わり、双方の立場から東急再建について検討した。現在の京王・小田急・京急を分割する再編成案は大川が三日三晩一睡もせず起草したものである。
この他、1946年には東急がプロ野球チーム・セネタースを買収した際、担当者としてオーナーに就任。同球団を「東急フライヤーズ」と命名して経営に当たった。また、命名でいえば神奈川県のタクシー大手・神奈川都市交通(発足当初は東急系)の名付け親でもある。大川は五島が公職追放にあった期間中も東急の主要人物として経営の根幹に携わっていた。
1951年2月、東京映画配給(東映)社長に就任。同社は当時極度の債務超過で多重債務に陥り、経営状況は深刻であった。東映を何とか東急グループの主軸に育てようとした五島の強い意向によるもので、大川は徹底した予算管理と原価管理を遂行。主な資金調達源を市中の高利貸しから銀行融資へ徐々に切り替えた。「ひめゆりの塔」のヒットもあって、業績は徐々に回復。時代劇解禁と共に、時代劇スターを多く揃えた東映の業績は好転した。岡田茂(現東映相談役 元会長)によると、五島に「東映の再建に成功した場合、自分の死後の東急グループの経営を君に任せる」と約束されていたらしいが、口約束だったのでその約束は破られた。
1954年、以前より携わっていたプロ野球・東急フライヤーズの経営を東映に委託させ、引き続きオーナーとして経営に当たる。1962年、パシフィック・リーグ優勝を果たし、日本シリーズも阪神タイガースを破り念願の日本一になった際、背番号100のユニフォームを着用して水原茂監督や選手達と共に優勝パレードに加わったが、あまり表舞台は好まなかったという声もある。
1953年に視察旅行したアメリカでのテレビの盛況を目の当たりにし、来るべきテレビ時代に先手を打ち、映画事業1本に頼らない経営の多角化に乗り出した。1956年には、日動映画を買収し、同社を東映動画(現在の東映アニメーション)と改称。本格的なアニメーション制作にも進出した。東映動画はテレビアニメーションやテレビCMを制作してテレビ時代を見据えたものであり、輸出産業ともなる目論見だった。
1960年には、現代劇制作を中心とした第二東映を設立して製作本数を倍増させ、日本映画界のシェア50%を目指すが失敗し、ニュー東映と名を変え、1961年に東映本体に吸収される。1959年には、日本教育テレビ(現在のテレビ朝日)を旺文社など教育関係者や日本経済新聞社とともに開局させる。ただし、本邦初の民間教育放送局として開局した同局の経営は厳しく、大川は1960年同局社長に就任後、対外呼称を「NETテレビ」に改め、総合局化を図り、同局の経営改善に取り組んだ。この間において、東急グループとの溝も深まり1962年には東急派と見られていた岡田茂を京都撮影所から東京撮影所に異動させている。
さらに、東映本社内にテレビ部を設けた他、東映テレビプロダクション、東映京都テレビプロダクションなどテレビ番組制作のための子会社を4社設立。経営の多角化では、ホテル事業、不動産事業に乗り出して、テレビ時代への対応を図った。1964年、東映は東急グループから離脱。当時は東急本体の経営を五島慶太から引き継いだ五島昇との確執によるものと噂された。この結果、大川は名実共に東映グループのオーナーとして経営に当たる事となった。経営には次期社長候補として息子の大川毅も加わり、ボウリング事業等に関わる。
1960年代後半に入るとテレビが一般家庭に急速に普及し、映画産業は一気に斜陽化が進んだ。1971年に肝臓を患ったが、病床にあっても経営再建に意欲を燃やし、帳簿と格闘する日々を送っていたという。1971年8月17日、肝硬変により死去。享年74。大川の死後は岡田茂が後継社長に就いた。球団経営に熱心だった大川を失った東映は、急速にその熱意を失っていった。そしてフライヤーズは大川の死去2年後の1973年1月、岡田・五島によって日拓ホームに売却された。
[編集] 逸話
- 丹波哲郎の著書「丹波哲郎の好きなヤツ嫌いなヤツ、キネマ旬報社」に、大川は「映画を知らない」との記載がある。それ以上詳しくは述べられていない。野球はとても好きだったそうである。(出典:大下剛史、2006年、東京スポーツ連載など) また大川の後継社長・岡田茂の著書「悔いなきわが映画人生、財界研究所」の中で深作欣二と岡田の対談があり、この中で深作が「映画の仕事に携わっている人は何か一本、映画を志す切っ掛けとなる映画がある。岡田さんは何か」としつこく問い詰められ、答えをムヤムヤにする件がある。つまり岡田は映画が好きな訳では無く、無理に言えば興行、或いは現場の雰囲気や、お山の大将になるのが好きだったのかも知れない。いづれにしても「映画を知らない」大川と「映画を好きでもない」岡田で東映の歴史が作られた事は大変興味深い。
[編集] 主な役職
[編集] 主な著書
- この一番
- この一番の人生
- 真剣勝負に生きる
[編集] エピソード
- ワンマンな性格で、金銭感覚が鋭く(いわゆる「締まり屋」)、小太りな体格、胴長短足、丸眼鏡、出っ歯、チョビ髭といった独特の風貌や、二人称が「チミィ」(君)であることなど、いわゆるステレオタイプの「日本の社長」像のモデルとされている。
- 東映フライヤーズ優勝時のパレードの終着点は、世田谷区にあった自宅であった。また、この優勝パレードの模様は映画化され、「東映優勝 背番号100」という作品で全国東映系で上映されている。
- 映画で世話になったと、全く関係のない場所に縁もゆかりもない「森の石松」の墓を一つ建立している。(一説には石松の墓は4つあるという)