劉ヨウ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
劉繇(りゅうよう、156年 - 197年)は、中国後漢末の群雄である。字は正礼。家系は劉氏で、漢の皇族系(前漢の高祖の孫である斉の孝王・劉将閭の少子の牟平共侯・劉渫の直系の末孫)の身分である。揚州に勢力を持った。祖父は平原国般の県令・劉本(劉丕)、父は山陽郡太守・劉輿(劉方)、おじは会稽郡太守・劉寵、劉韙、兄は劉岱、子は劉基・劉鑠・劉尚。
目次 |
[編集] 略要
[編集] 名門の御曹司
青州東莱郡牟平県(山東省東部)の人。彼は後漢の皇室の遠縁の一人である。司馬光の通鑑によると、彼が20歳前後の時に、おじの劉韙が盗賊に捕らわれてしまう。当時の血気盛んな劉繇はおじの身を案じて、十数人の仲間と共に決死隊を組んで盗賊の縄張りに忍び込んだ。劉繇は決死隊の隊長として、盗賊の隙を窺って、居眠りした盗賊の頭目の首を斬り捨て、盗賊一味を撃退し、おじの劉韙を救出したのである。このことが評判となり劉繇は間もなく孝廉に推挙され、郎中となった。ただ、この逸話は劉繇と同年の孫堅が17歳の時の行為と類似している見方もある。
[編集] 栄光と挫折
やがて、劉繇は下邑県の県令を経て、故郷に近い済南郡の県尉に昇進した。侠気に溢れた劉繇は、賄賂を奨励し悪事を重ねる済南郡の高官達を告訴して、これを果敢に処刑する手腕を発揮した。このように劉繇は実兄の劉岱と兄弟併せて、当時の人々から「劉岱・劉繇兄弟をまとめて得たならば、それは二匹の龍・麒麟に等しい」と絶賛されるほど、清廉で毛並みがよい皇族兄弟と謳われたようである。
こうして功績を重ねた劉繇は、朝廷に評価され、亡き陳温の後任として揚州刺史に任じられた。揚州を統治するため寿春を本拠地にしようとしたが、政敵である袁術に奪われてしまったため、曲阿を本拠地とした。そしてその地で勢力を持っていた呉景(孫策の母方の叔父)と孫賁(孫策の従兄)を弾圧し、追い出したのである。呉景らは、袁術と親しかったため劉繇に追い出されたのだと言われている。
しかし、これを理由として、196年に孫策が袁術の承認を得て襲撃して来たのである。劉繇はまず武将の張英に命じて孫策に当たらせたが、味方の内通で張英は却って敗走した。こうして激怒した劉繇自ら軍を率い、同郷でもある太史慈を先鋒大将として、孫策軍と激突した。だが猛き孫策軍の猛攻の前に劉繇は大敗を喫した。そこで、劉繇は許劭の勧めで予章に逃亡した。この時、予章太守の座を巡って諸葛玄(諸葛亮の従父)と朱皓(朱儁の嫡子)との争いが起きた。劉繇は配下の笮融に命じて諸葛玄を殺害させ、朱皓を太守の座に就けた。しかし、笮融がその後、予章の地で乱暴狼藉を極めたため、劉繇はこれと戦い何とか追い出すことに成功した。その後、笮融は怨みを持つ領民によって嬲り殺しにされるという、無惨な最期を遂げている。
翌197年に、劉繇は病のために間もなく死去している。42歳であった。劉繇の逝去を知った孫策は自ら予章に赴いて劉繇を手厚く埋葬し、丁重に故郷の東莱郡牟平県に葬り、その遺児の劉基らを厚遇したという。この孫策の行為は、劉繇が清廉で人望があったこと、または劉繇が皇室に連なる名家でその勢力に着眼を置いて、劉繇一家を優遇したことが考えられる。