許劭
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許劭(きょしょう、150年-195年)は、後漢末期の人物批評家。字は子将。蜀の劉備に仕えて司徒となった許靖の従兄に当たる。許混の父。陳祗は許劭の姪の子。親類の許敬、許訓、許相といった人物は、皆三公まで昇っている。
豫州汝南郡平輿郡の人。一八歳のときに謝甄の人物評価を受け、その後自らも人物批評家としての活動を行うようになる(『三国志』)。若い頃は許靖と共に、月に一度月旦評と呼ばれる人物評論会を開いていた(『後漢書』)。彼の影響力は絶大で、彼に賞賛された者は出世を、されなければ没落の道をたどったという(『太平御覧』)。
同郷の袁紹は、許劭から批判されることをおそれてその華美な装いを改めたという(『後漢書』)。また、若い頃の曹操も橋玄の薦めにより彼と会って自分を評価してもらい、「治世の能臣。乱世の奸雄」と称されている。曹操はその人物評を聞いて、相当に喜んだという(『三国志』)。
その後、汝南の太守となった徐璆は彼を功曹として登用した。さらに曹操や楊彪など様々な人物が許劭を招聘しようとしたが、彼は全て断った(『後漢書』)。やがて中央が戦乱に巻き込まれるようになると、難を避けて江南に移住した。劉繇の元にいた時期があり、劉繇に予章へ行き、曹操や劉表の助けを受けるよう勧めている。195年、46歳のときに病のため、豫章郡で亡くなった。
彼の人物批評の手法は、対象が誰であっても憚らず、自らが善と見なす人物に対しては賞賛を与えるが、そうでない人物に対しては徹底的な批判を与えるというものであった。ただ、そういった手法に対して批判的な言説もあり、曹丕などは許劭のことを批判している(『三国志』)。そのほか蒋済などは、許劭の人物批評が私情を交えた不公平なものだと批判している(『三国志』)。それは、蜀において諸葛亮はじめ多くの人士から尊敬を集めた許靖を全く評価しなかったことによる。許劭と許靖は、従兄弟同士でありながらその仲は険悪であり、許劭は人物批評の上では許靖を黙殺していた。
ただ、曹操が彼の人物眼を高く評価しているなど、人物批評家として当時の一大家であったことは間違いない。現代においても、人物の批評をさして「月旦評」というのもそのあらわれである。