劉氏
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劉氏(りゅうし)とは、中国の氏のひとつ。現代中国において最も数の多い五大姓(李・王・張・趙・劉)の一つに数えられる。歴史的には漢(前漢、後漢)の氏である。
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[編集] 劉氏の起源
劉氏の起源として三つほど挙げられる。 最初が舜の子孫が劉氏を名乗った。二つ目に周の頃王の子孫が劉の地に封じられたので氏を劉とした。三つ目に晋の将軍士会の子孫が劉氏を名乗ったという。
[編集] 漢の劉氏
[編集] 前漢の劉氏
前漢の劉氏の起こりは沛の農民の生まれである劉邦が秦の始皇帝死後の混乱に乗じて台頭し勢力拡大、宿敵である項羽を討って漢を建国した。 以来、劉氏は漢の皇室として存続してきた。しかし、皇室の外戚であった王莽が前漢最後の皇帝 孺子嬰より禅譲を受けると、一度、皇室としての劉氏は滅亡した。漢高祖の劉邦については多くの伝承があり、家系については様々な議論があったが、司馬貞は「晋の士会の子孫」としているが、これに対して銭大昕は「劉太公(劉邦の父)以前は姓を考えるような身分ではなかった。どうして祖先の姓が分かるだろうか」と述べている。
[編集] 後漢の劉氏
前漢の後を受けて建国された新は、民心をつかめず崩壊し、前漢の皇族であった劉秀が光武帝として即位。後漢を建国した。前漢の劉氏の系譜をひくが、後漢では前漢の皇族に対しては冷遇したとされる。
[編集] 蜀漢の劉氏
後漢が衰退すると、中国国内は群雄割拠の状況に陥り、やがて魏(曹魏)、呉(孫呉)、蜀漢(蜀)の三国が覇権を争った。このうち、蜀漢は前漢の景帝の第八子である中山靖王・劉勝の庶子の陸成亭侯・劉貞の直系の末裔と称した劉備が建国した国である。但し、後漢の禅譲を受けた魏やその魏から禅譲を受けた晋から見て、かつての蜀漢の臣だった陳寿は立場上、蜀漢を後漢の正当な継王朝と扱っていないため、四川の旧称である『蜀』として表記される場合も多い。
[編集] その他の劉氏
以降の歴代漢王朝の滅亡後も劉氏の数は増え続け、劉宋(宋漢)の皇室を初め、匈奴の前趙(趙漢)が劉氏を名乗るなどとした。
劉宋(宋漢)の高祖・劉裕は前漢の高祖・劉邦の弟(従弟の説あり)である楚元王・劉交の子孫と自称していたが、実際には、単なる貧しい東晋の下級官吏の出身であった。本人曰く「俺が前漢の楚王の末裔であるはずがないだろう」と皇帝に即いてから、自らの家系を偽称していたことを認めたという。