朱儁
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朱儁(しゅしゅん、?-195年)は後漢末期の将軍。字は公偉。会稽郡上虞県出身。子は朱皓。
若い頃から義を好み智勇に優れ、太守尹端の主簿ののち、太守徐珪から孝廉に推挙され蘭陵県令となる。
178年、反乱の起きた交趾の刺史に任命され、梁龍を斬り平定した。この功で千五百戸の都亭侯に封じられ、中央に召されて諫議大夫となる。
184年、黄巾の乱が起こると右中郎将に任命され、左中郎将の皇甫嵩らと各地を転戦、平定し、西郷侯と鎮賊中郎将に任じられる。この時、同じ揚州出身の孫堅を召しだしている。その後も南陽の趙弘、宛の孫夏を討つなど功を重ね、185年に右車騎将軍、光禄太夫、銭塘侯に封じられ食邑五千を加増された。母の喪に服し辞任するが再び中央に召され、将作大匠、少府、太僕と歴任する。
張燕が洛陽をおびやかすと河内太守に転出し、賊を退却させると再び光禄太夫に任命され、城門校尉、河南尹に転任した。
董卓が洛陽に入り朝廷を左右するようになると、朱儁は専横を良しとせず、遷都の計画にも反対した。董卓が長安へ行き朱儁が洛陽へ留め置かれると、山東の反董卓勢力と連絡を取り内応を約束するが、董卓に襲われることを恐れて荊州に出奔する。のち兵士を率いて洛陽へ戻り陶謙の支援を受け、董卓を討とうと進軍するも、李傕と郭汜に防がれた。
董卓が誅殺され李傕と郭汜が長安を支配すると、陶謙ら山東の諸将とともに献帝を迎えることを上奏するが、逆に賈詡の策で召し出され太僕となり、193年には太尉となる。
194年驃騎将軍となる。李傕と郭汜が互いに攻め合うと大司農となり、和睦を図るも郭汜に人質とされる。朱儁は憤り病を発し、同日病没した。
息子の朱皓(字・文明)は予章太守となって先任の諸葛玄(諸葛亮の叔父)を追放したと言う。
[編集] 評論
三国志演義では、黄巾族討伐軍で朱儁傘下の劉備らに翻弄され、黄巾の乱の際の劉備の功績をすべて自分の功績にしてしまった情けない将軍として描かれているが、実際の朱儁は相当な名将であり、反乱が起こるたびに各地へ派遣され、平定しては呼び戻されているなど信頼の厚さを感じさせる。 その生い立ちを見ると、『若くして父を失い、母がいつも絹を売って生計を立てていた。朱儁は孝養を尽くして評判となり、県の門下書佐となった。義侠を好んで財貨を軽んじたので、郷里の人々は彼に敬服した』(朱儁伝)とあり、劉備と同じ生活環境であった。 同じような環境で育ちながら、劉備は思慮深く書かれ、朱儁が狭量人に描かれているのは、正しく劉備贔屓であり、全く解せない事である。