内藤家 (信成系)
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内藤家(信成系)として本項で扱うのは、戦国期に三河国松平氏家臣であった内藤清長の養子・内藤信成を開祖とする家系のこと。この家は譜代に属するが、信成が徳川家康の異腹の弟であるとの説があり、それゆえ松平氏庶流と考えることもできる。しかし「寛永諸家系図伝」「寛政重修諸家譜」ともにこの説を採らず、清長とその実子である内藤家長によって継承された内藤家と同じく「藤原氏(秀郷流)」として扱っている。
- 「藩翰譜」はその按文で広忠庶子説を紹介しているが、信成を家長の養子とする説(「寛永諸家系図伝」はこれを採る)への批判が述べられるにとどまり、広忠庶子説について「従うべし」とはしていない(『新編 藩翰譜』2巻101項の按文)。
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[編集] 開祖・内藤信成
永禄6年(1563年)の三河一向一揆との戦いの功績により、三河国中島の600石を与えられる。養父・清長の家督は家長がこれを継ぎ、信成は別に家を興した(「寛政譜」新訂185項)。天正18年(1590年)家康の関東入国の際に伊豆国1万石をあたえられて韮山城を居所とし、さらに慶長6年(1601年)には4万石に加増されて駿府城主となる。慶長8年(1603年)従五位下豊前守に叙任された後、慶長11年(1606年)采地を改められ、近江国4万石を領して長浜城主となった。
[編集] その後の内藤家
慶長17年(1612年)に信成が死去し、子の内藤信正が家督を継いで長浜藩の藩主となる。同20年、摂津国高槻藩に移封され、高槻城を居所とした。元和3年(1617年)に伏見城城代となり、同5年(1619年)秋7月には大坂城代となる。こうした経緯を見ると、内藤家は特に徳川将軍家の信頼が篤かったことが窺える。寛永3年(1626年)の信正の逝去を受けて嗣子の内藤信照が後を継ぎ、同4年に陸奥国棚倉藩に移封となった。
信照は自藩の検地を徹底的に行なって藩の基礎体制を固め、また子の内藤信良も引き続き検地を実施した。しかし信良の養子・内藤弌信の代になると藩の財政は窮乏化する。弌信は側近の松波勘十郎を要職に就け藩政の改革を目指したが、その苛酷な政策と領民の怨嗟によって勘十郎は更迭、改革は挫折した。宝永2年(1705年)に駿河国田中藩へ移封、後に所領の一部を備中、摂津、河内に分散せられたが、享保3年(1718年)越後国村上藩に転じ、同10年、信良の実子・内藤信輝がその家督を継承した。
以降も内藤氏は在続したが、幕末の第8代藩主・内藤信民は、藩内の対立を解決できないまま、慶応4年(1868年)に自決してしまった(注)。この衝撃的な事件に動揺した内藤家は、家老で佐幕派の鳥居三十郎が実権を握る。この三十郎は隣接する庄内藩と長岡藩と共に新政府軍と戦ったが、大敗を喫し、同年秋9月27日に降伏することとなった。明治2年(1869年)冬2月、養子・内藤信美が内藤氏の家督を相続。同年6月の版籍奉還により村上藩知事となり、明治4年(1871年)の廃藩置県を迎えた。
- 注『村上市史資料編6』近現代行政資料編上巻59項。新政府軍への対応を巡り「激しい議論が闘わされた」と推測した上で、信民の自決を両派の対立相克に苦悶した結果とみている(『村上市史通史編3』22から24項も同旨)。しかし藩論が二分されていたことの典拠が不明であり、また彼の自害についてこれを直接に記す当時の記録も存在しない。ただ東京堂出版『幕末明治日誌集成』2巻所載の鈴木乙五郎の嘆願文書に「去月十七日致自傷候様子ニ相聞」とあり、藩士の間でそのように認識されていたことがうかがえる。東大資料編纂所所蔵『内藤家譜』にはその死因を「病死」と記している。
また信民の享年および没年月日に関しては『内藤家譜』が20歳で明治1年7月16日としているのに対し(文書中に「藩翰譜書継」とされている部分の「信民」の項)、これを基に編纂されたと考えられる後出「諸侯年表」および昭和6年の村上本町教育会編・刊『村上郷土史』では享年19、7月11日卒と記されている。前者は単なる誤記とも考えられるが、後者は女性の名や戒名が記されており、信民の墓所である村上市・光徳寺の過去帳に拠ったとも考えられる。
- 参考:東京大学資料編纂所所蔵『内藤家譜』→「内藤信美」の名がある「系譜」「家譜抜書」および「藩翰譜書継」から成る文書で、維新後に政府に提出されたものと思われる。東京堂出版『内閣文庫蔵 諸侯年表』に「家譜」として記されているものはこれであると考えられ(「序」および「村上内藤家」の項参照)、汲古書院刊『朝野旧聞褒藁』1巻659項に「内藤家譜」として採録されているもの(『大日本資料』12編ノ9慶長17年7月24日の条所収「別本 内藤家譜」)とは別物である。『村上市史資料編2』690から695項に抄録されている他、同編纂所の所蔵史料目録データベースからキーワード入力で閲覧・印刷可能。請求番号4175-665。
[編集] 信成系内藤氏家系図
凡例 太字は当主、太線は実子、細線は養子 内藤清長 ┝━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓ 信成(清長の養子。別家を興す) 内藤家長(清長の実子。その家督を継ぐ) ┣━━━━━━━━━━━┓ 信正 信広 ┃ ┃ 信照 信光 ┣━━━━━┓ ┃ 信良 信全 弌信(信光の次男) ┝━━━━━┓ 弌信(養子)信輝(信良の実子) │ 信輝(弌信の養子となる) ┃ 信興 ┣━━━━━┓ 信旭(長男)信凭(次男) │ 信凭(兄の養子となる) ┃ 信敦 ┃ 信親(信思) | 信民(内藤正縄の五男) | 信美(岡部長寛の次男)
- 出典『新訂寛政重修諸家譜』13巻、信親以降は『内閣文庫蔵 諸侯年表』による。