明帝 (漢)
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明帝(めいてい 28年 - 75年、在位57年 - 75年)は、後漢の第2代皇帝。姓は劉。諱は荘(そう)。初名は陽(よう)。父は光武帝。母は光武帝の皇后・陰麗華。
父帝の死に伴い、当時皇太子であった、劉荘が即位した。原則的に父の施政方針を受け継ぐ形での政治を行ったが、外政においては、父の鎖国政策を取りやめ、武帝以来の西域への積極的な進出を再開した。この対外政策により、班超が世に出ることとなった。
また、明帝の時代に、仏教が正式に伝来したといわれるが、詳細は不明である。
明帝の治世は、父・光武帝、子・章帝のそれとともに、約200年続いた後漢朝の内では、非常に安定した全盛期であるといわれる。それは、和帝以降未成年で即位した皇帝が相次ぎ、幼少の皇帝を巡り、外戚勢力と宦官勢力とが政治の主導権を争い、結果として、後漢の滅亡の大きな要因となったが、光武帝陰皇后、明帝皇后の馬皇后(光武帝配下の武将馬援の娘)の二人はいずれも類まれな賢夫人とされており、この二人の自制によって外戚勢力がほとんど完全に抑えられていたからである。
しかし、明帝もまた50歳前に没しており、彼以降、献帝を除く、歴代の皇帝で50年以上生きた皇帝はいない。その点から見れば、後漢に於ける皇帝の若死にと年少の新皇帝の即位というパターンは、明帝の死によって始まったともいえる。