仙台城
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伊達政宗の騎馬像 小室達作 | |
通称 |
青葉城 |
城郭構造 |
連郭式平山城 |
天守構造 |
なし |
築城主 |
伊達政宗 |
築城年 |
1601年 |
主な改修者 |
伊達氏 |
主な城主 |
伊達氏 |
廃城年 |
1871年 |
遺構 |
現存門、石垣、土塁、堀、再建櫓 |
仙台城(せんだいじょう)は、現在の宮城県仙台市の青葉山にある平山城である。
慶長年間に伊達政宗が築造してから、廃藩置県・廃城令までの約270年に渡り、伊達氏代々の居城であり、仙台藩の政庁であった。国指定史跡。
幾度となく、地震などによる損害を受けながらも修復を繰り返し、奥羽越列藩同盟盟主として戊辰戦争を経るも、一度も戦火を見ることなく要塞としての機能を終えて、その後は明治初期から大正にかけてその大半が失われた。 数少ない遺構であった大手門、隅櫓、巽門は太平洋戦争の空襲による戦火に見舞われ焼失した。現在では、宮城県知事公舎正門の建築に転用された寅の門の部材が残るのみである。
青葉山に位置する事から、青葉城(あおばじょう)という雅称を持つが、一般的に青葉城と呼ばれる事が多い。これは仙台城ができてから生まれた地名で、山と城のどちらが先に「青葉」の名を得たか不明である。青葉山は、仙台七崎の一つ「青葉ヶ崎」に由来する。
目次 |
[編集] 城の構成
初代伊達政宗期に造営された青葉山の本丸、西の丸、二代伊達忠宗期に造営された青葉山山麓の二の丸、三の丸(東の丸)と、それに付随する櫓、門からなる。
[編集] 本丸
大手門を抜け、左に折れた坂道をほぼ真っ直ぐに上り、寅の門(中の門、中門)を抜けると本丸入り口である詰の門(つめのもん)跡がある。本丸は、その中核的施設である大広間、本丸北東部に最も高く威容を誇った艮櫓(うしとらやぐら)、詰の門両脇の櫓などから構成されていた。現在は、詰の門跡地に護国神社の鳥居がある。仙台城趾に自家用車や観光バスなどで来た場合は裏側にある埋門(うづみもん)跡から入ることになる。
天皇家や将軍家が訪れたときにのみ開く御成門があったが、一度も開くことはなく、大広間には伊達藩主が座する上段の間の上に、天皇家・将軍家専用の上々段の間があったが、同じく使用されることはなかった。 また、清水寺のように崖に迫り出すように作られた懸造(掛造)からは仙台市内が一望でき、戦時ともなれば崖を登ってくる敵に鉄砲を浴びせることも想定していた。 天守閣を持たない本丸において最も威容な建造物として、本丸北東部(北東は丑寅、艮と呼んだ)に位置する艮櫓(うしとらやぐら)があり、復元計画がなされていたが、石垣保存問題と国跡指定などを理由に2003年中止が決定。
[編集] 西の丸
現在は宮城縣護國神社がある。
[編集] 二の丸
二代藩主伊達忠宗により造営。寛永15年(1638年)5月4日着工され、翌寛永16年(1639年)12月に落成。以後明治に至るまで藩政の中心であった。二の丸の正門である大手門を入りその奥の詰門を抜けると、藩主が住む屋敷、能舞台などがあった。二の丸規模は東西310メートル、南北200メートル。
明治に至り、明治2年(1869年)に勤政庁が置かれ、明治4年(1871年)に東北鎮台(後の陸軍第二師団)が置かれた。明治15年(1882年)9月7日、追廻で行われた西南の役(西南戦争)戦没者招魂祭の花火が不発のまま落ち、その火災により、表舞台楽屋以外の二の丸遺構はすべて焼失。残った表舞台楽屋も戦災で焼失。現在は東北大学川内キャンパス(川内南キャンパス)となり、文系四学部(文学部、経済学部、法学部、教育学部)が入る。大手門は二の丸の正門である。
[編集] 大手門
昭和6年(1931年)に脇櫓と共に国宝に指定されたが、仙台空襲の際焼失。
[編集] 櫓
脇櫓とも言う。大手門と共に昭和6年(1931年)国宝に指定されるも、戦災で焼失。1967年に民間の寄付により復元され、現在は唯一復元された建造物である。
[編集] 三の丸
仙台藩の米蔵があり、二の丸造営時に造られたと考えられている。正確な造営時期は不明であるが、古くは東の丸とも呼ばれたことから、伊達政宗時代に西の丸と併せて造られた可能性もある。現在では仙台市博物館がある。
[編集] 石垣
[編集] 歴史
[編集] 江戸前史
現在の青葉山には、伊達氏以前から城があり、初めは千体城、後に千代城と称し、鎌倉時代末期から室町時代中期にかけて島津氏が陸奥守として居城し、室町時代末期には国分荘の国人国分氏が居城したとも伝えられている。
[編集] 江戸時代
伊達政宗の叔父でもある城主国分盛重が政宗と対立して出奔すると、千代城は廃城となった。
政宗は、関ヶ原の戦いの後、徳川家康の許しを得て千代に居城を移すことにした。慶長5年12月24日(1601年1月28日)に青葉山に登って縄張りを始め、地名を仙台と改めた。彼が築いた仙台城は、本丸と西の丸からなる山城であり、天守台はあるが天守閣は持たなかった。これらの点で時代の流行に背を向けたが、結果として仙台城は、ビスカイノをして「日本の最も勝れ、又最も堅固なるものの一つ」と言わしめるほど、同時代に比類ない堅城となった。
しかし、世が泰平となると、山上と麓の往来は不便であったため、伊達忠宗が寛永14年(1637年)に二の丸造営に着手し、翌年完成させた。本丸と同じく広瀬川の内側にあるが、土地は平坦な場所である。伊達家の当主はここに居住し、政務もここで執られた。時期は不明だが、これと前後して大手門脇、青葉山の麓に三の丸が作られた。これ以降、仙台城は平山城となった。
江戸時代を通じて、仙台城は火災や地震により何度か建物や石垣の一部を失い、そのつど再建された。戊辰戦争でも仙台が戦場になることはなかったため、仙台城は創建以来一度も攻撃を受けずに要塞としての役目を終えた。
[編集] 明治以降
陸軍の東北鎮台が仙台城を司令部にして駐屯した。このとき本丸が破壊され、石と木が兵舎建設に流用された。後に東北鎮台は仙台鎮台と改称した。さらに鎮台制が師団制にかわると、第二師団が置かれた。
明治37年(1904年)に、本丸の跡地に招魂社が建てられた。今の護国神社である。
大手門から本丸への途中にある中門が大正9年(1920年)に、取り壊され、現知事公館の正門に移築された。
昭和6年(1931年)に大手門と脇櫓(隅櫓)が国宝に指定される。
昭和18年(1943年)政宗像が金属類回収令により撤去された。全て溶解していたはずだったが、戦後、頭から胸は溶かされずにいたのを発見される。この胸像は現在、仙台市博物館に展示してある。
太平洋戦争末期の昭和20年(1945年)7月10日未明、アメリカ軍による仙台空襲の際、米軍のB29により投下された焼夷弾により、大手門、隅櫓(当時国宝)、衛兵所に使用中の二の丸表舞台楽屋などが全て焼失。これにより、江戸時代から伝わる建物は三の丸の巽門(たつみもん)のみとなった。(この日の戦災で焼失したという説もある。)護国神社も焼失した。
[編集] 太平洋戦争後
戦後、第二師団の跡地にアメリカ陸軍が進駐し、三の丸巽門が破壊された。これによって江戸時代より伝わる仙台城の遺構はすべて消滅した。アメリカ軍は昭和32年(1957年)にここを返還した。
昭和29年(1954年)、戦争中に撤去された政宗像はコンクリートによって再建される。これは立ち像であった。
返還された後の二の丸跡地には、東北大学が入り、東北大学川内キャンパスとなった。川内キャンパス(川内北キャンパス、川内南キャンパス)のうち、南部の文系四学部、付属図書館、付属植物園のある場所が二の丸にあたる。
護国神社は、昭和25年(1950年)に国有地払い下げを受け、本丸一帯を所有した。仙台市は城が神社のものになることを望まず、交渉して土地の一部を管理し、一部を買い上げた。平成15年(2003年)現在、本丸の一部は仙台市のものだが、本丸の一部と西の丸はなお護国神社のものである。城を訪れる人は、表玄関である詰の門があった場所に、大きな鳥居と「靖国神社公式参拝を継続させよう」などと書かれた看板を見ることになる。本丸の中心は、護国神社の拝殿と青葉城資料館、食堂などが占める。
昭和36年(1961年)に、三の丸跡地に仙台市博物館が開館した。三の丸の堀は、長沼、五色沼として残る。
昭和37年(1962年)、銅像が再建されて騎馬像として建立された。先に建立したコンクリート製の立ち像は岩出山町(現・大崎市)の岩出山城に移設された。
[編集] 仙台城の復元
昭和39年(1964年)に、民間の寄付を募って大手門隅櫓が復元された。これが唯一江戸時代の姿を示す建物である。向かいに石垣があるため、隅櫓と石垣の距離をもって往時の大手門の大きさをしのぶことができる。
隅櫓を復元し仙台市に寄付した期成会は、次に大手門の復元を計画したが、資金と用地の問題があって先延ばしになり、果たせなかった。以後も復元を望む声は絶えないが、以下の石垣修理以外は着手されていない。大手門復元に関しては、地下鉄東西線竣工を目処に開始される予定である。
本丸の石垣崩落のおそれが出てきたため、1998年度から2003年度までの工期で石垣の全面修理が実施されている。この過程で、3期にわたる石垣の存在が確認され、過去に数度の修復が行われていたことが分かった。
工事終了後、本丸にあった艮櫓(うしとらやぐら)を復元する計画であったが、石垣調査によって、艮櫓は修復中の第三期石垣の上にはなく、第三期石垣からみるとやや後ろにひっこんだ位置にあったことが判明した。艮櫓は第三期には存在しなかったので、第三期の石垣と一・二期当時の艮櫓をあわせて復元すると、櫓が市街から見えなくなり、景観も合わない。さらに、櫓の基礎工事が貴重な遺跡である石垣の基礎部分を破壊することになるという懸念も表れた。城跡の市有地部分が国の史跡に指定されたことに伴い、史跡保存の観点が優勢となり、艮櫓復元は着工前の2003年5月に中止になった。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- 仙台城の石垣を守る会
- 仙台城(青葉城)
- 仙台城跡地震災害復旧工事および発掘調査状況(寅の門の写真が掲載)
- 位置