国分盛重
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国分 盛重(こくぶ もりしげ、天文22年(1553年) - 元和元年7月15日(1615年9月7日))は、戦国時代の武将。伊達晴宗の五男、伊達盛重が国分氏に養子入りし、国分姓を名乗る。伊達政宗の叔父にあたる。松森城の最後の城主としても知られる。
1599年、政宗に謀反の疑いをかけられ、佐竹義宣の下へ出奔。関ヶ原の戦い後に義宣が出羽国久保田藩へ減封されると、盛重もこれに従って出羽へ随行。1615年、横手城で亡くなる。享年63。 佐竹義宣の家臣となってからは伊達姓を名乗り、左門宣宗(佐竹義久の子)を養子に迎え秋田伊達氏の祖となる。 実子のうち、長男は事績不詳であるが出家して僧になったと伝わり、次男実永は持惠澤山龍寶寺住持で玄性坊と称し、三男重広は仙台藩着坐古内家の養嗣子となった。庶子の重吉は帰農し開墾に勤しみ子孫は国分姓を憚り、馬場若しくは桂島を称した。 1718年の仙台天一坊事件では川村玄碩が国分盛重の子孫を称したと伝わる。