三好英之
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
三好 英之(みよし ひでゆき、1885年8月 - 1956年2月14日)は、明治、大正、昭和時代の実業家・政治家。旧名、三好 栄次郎(みよし えいじろう)。鳥取県米子市名誉市民。家系は清和源氏。小笠原氏の支流 三好氏。
[編集] 経歴
現在の鳥取県米子市道笑町に三好常次郎の次男として生まれる。米子中学から東京の京華中学を経て1906年に早稲田大学政治経済科を卒業。郷里に帰り山陰日日新聞(日本海新聞の前身)を設立し社長になる。1909年は先祖の主君である中村一忠の300年忌になることから三好の主唱により感応寺にある墓所が改装された。
1924年の第15回衆議院議員総選挙に無所属で立候補し初当選し、以後1942年の翼賛選挙に推薦候補として当選するまで通算6回当選。
1927年立憲民政党の結成に参加。戦前は米内内閣の陸軍政務次官、大政翼賛会中央協力会議員、翼賛政治会衆院部長等を歴任した。また院内では商工委員会に属していた関係から岸信介と親交を結んだ。戦後日本進歩党の結成に参加したが公職追放となった。
追放解除後は、一旦民政旧友会を結成したが、武知勇記らと共に岸信介を担いで保守新党を結成しようと画策。国民民主党と合同して保守新党を結成しようとする大麻唯男・松村謙三らと対立し新日本政治経済調査会を結成。更に旧民政党系以外の政治家も加えて日本再建連盟を結成し理事長に就任した。
日本再建連盟は1952年の総選挙に十数名の候補者を擁立したが、当選したのは武知勇記1人だけで三好を含めた他の候補は全て落選。翌年の参議院選挙に無所属で立候補し当選。1954年に日本民主党の結成に参加し、第1次鳩山内閣の北海道開発庁長官に就任。
1956年死去。墓所は米子市の福厳院。
[編集] 系譜
- 道笑町三好氏 三好家は戦国大名三好長慶の末裔を称し米子藩主中村家の遺臣であったことにより米子城城代職荒尾氏から終世20人扶持をあたえられ米子城下の目抜き通りに店をもつことをゆるされた豪商郷士であった。伝承では仁兵衛長政を米子三好家の先祖とし初代三郎兵衛は仁兵衛の子供か孫に当たるという。英之は10代目にあたる。息子基之の妻は米原章三の娘
現在も町内に三好内科医院やその一門が繁栄している。
仁兵衛長政(伝承)……三郎兵衛━三郎兵衛━吉三郎━吉三郎光豊━佐二郎秀福━吉十郎秀顕━吉三郎秀篤━八次郎秀豊━常次郎━英之