中村一忠
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中村 一忠(なかむら かずただ、1590年(天正18年) - 1609年6月12日(慶長14年5月11日))は、安土桃山時代、江戸時代前期の大名。名は忠一(ただかず)とも。
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[編集] 経歴
1600年7月17日、東軍に与していた父・一氏が関ヶ原本戦直前に病死したため、その後を継いだ。そして関ヶ原の戦い本戦に参加して戦功を挙げたことにより、戦後、徳川家康から駿河国府中14万5000石から伯耆国米子17万5000石に加増移封された。1601年には家康から松平姓を与えられ、松平伯耆守と称した。しかし、まだ12歳の幼年であったため、家老の横田村詮が執政に当たった。
1603年11月4日、一忠は正室と祝言をあげた後、家老の横田村詮を誘き寄せて殺害した。これは、執政として辣腕を振るう村詮を妬んだ一派による讒言を一忠が聞き入れたためと言われている。この事件は拡大して、村詮の遺族が一忠に対して反乱を起こしたが、一忠は隣国出雲の領主堀尾吉晴の援助を得て何とか鎮圧した。
1609年、20歳の若さで死去。戒名は青龍院殿一融源心大居士。墓所は鳥取県米子市の感應寺。
[編集] その後の中村家
中村家は表向き断絶したことになったが一忠の側室(梅里と伝える)が男子(一清)を産み、後に池田光仲に仕え着座(鳥取藩での家老の呼称)池田知利(下池田)の客分となる。禄高100-150石。中村一清の子孫は藩主の陪臣として明治維新をむかえ、現当主義和氏は千葉県に在住し、分家の忠文氏は鳥取市で中村歯科医院を開業している。
[編集] 一族・縁者
[編集] 系譜
- 中村氏
一氏━一忠━一清━清義━義元━義貞━義春━┳義枝━┳長彌━豊德 ┣平八 ┗枝幸 ┗妙馬
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
(中村家の会会長)
- 中村氏(米子藩)藩主
- 1600~1609
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- 先代:
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- 次代:
- 加藤貞泰