米子藩
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米子藩(よなごはん)は、伯耆国会見郡米子(現在の鳥取県米子市久米町)に存在した藩。藩庁は米子城。
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[編集] 概要
戦国時代、米子は尼子氏、毛利氏が奪い合いを繰り返す戦略上の重要拠点であった。その後、伯耆国は豊臣氏時代に東西に二分され、西は毛利氏の所領となり、毛利一族の吉川広家が支配していた。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで毛利氏が西軍についたことから戦後に大幅減封処分を受けると、吉川広家も周防岩国藩に移ることとなった。
これにより、米子には新たに中村一忠が3万石加増の伯耆国17万5000石の領主として入国した。一忠は豊臣氏三中老の一人であった中村一氏の子で、一氏は関ヶ原の戦いにおいては東軍に与していたが、本戦直前の7月17日に病により急死してしまった。しかし一忠は父の遺志を継いで東軍に与して戦功を挙げたため、加増移封となって米子藩が立藩したのである。
しかし一忠は関ヶ原当時は11歳という若年であることから、実際の藩政を担当したのは叔父に当たる中村一栄、そして重臣の横田村詮であった。この横田は三好氏の浪人であったが、政治の才能に恵まれていたため一氏の時代から重用されており、その死後も幼年の一忠のもとで辣腕をふるって米子藩の藩政確立に尽力した。しかし村詮が辣腕を振るえば振るうだけ、その功績は新たに一忠の側近となった連中に嫉妬されるようになる。そして遂に慶長8年(1603年)、その側近連中の讒言を受け入れた一忠は、村詮を米子城内において惨殺してしまったのである。このとき、村詮の遺族がこの藩主の横暴に憤激して反乱を起こしたが、一忠は隣藩の堀尾吉晴の援助を得て鎮圧している。しかしこの御家騒動も一因して、慶長14年(1609年)5月に一忠が若死にすると、嗣子がないということで(一忠には嗣子がいたとも言われているが、先の御家騒動に幕府がかなり激怒していたらしい)幕命により改易されてしまったのである。
翌年7月19日、米子には美濃黒野藩から2万石の加増の上で移封されてきた加藤貞泰が6万石で入る。貞泰は大坂の陣において軍功を挙げたことから、元和3年(1617年)に伊予大洲藩に移され、ここに米子藩は廃藩となったのである。
加藤氏移封後の旧領は元和3年(1617年)、播磨から因伯両国に入った池田光政の領地となり光政は伯耆の拠点米子城に筆頭家老の池田由之をいれた。さらに、寛永九年(1632年)国替えにより因伯両国に入った池田光仲は着座家筆頭の荒尾成利を米子城にいれその城下は荒尾氏の自分手政治にまかせた。
[編集] 歴代藩主
[編集] 中村(なかむら)家
外様。17万5000石。
- 一忠(かずただ)
[編集] 加藤(かとう)家
外様。6万石。
- 貞泰(さだやす)