一龍戦争
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一龍戦争とは、自民党内の竹下派七奉行の頃から自民分裂から連立時代に故橋本龍太郎元首相と民主党小沢一郎代表との間で繰り広げられた抗争である。元々橋本、小沢両氏の父が吉田内閣で吉田茂元首相の側近だった(橋本龍伍(龍太郎)と小沢佐重喜(一郎)である。)事もあって一説では、親の代からといわれている。また両氏の後見人は、橋本氏が佐藤栄作元首相で小沢氏が田中角栄元首相とあって佐藤派の頃は、橋本氏が田中派の頃は、小沢氏がそれぞれ厚遇された。
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[編集] 創政会の結成
1985年竹下登氏が創政会を立ち上げる(=田中派分裂)と、田中元首相が娘眞紀子を通して竹下系を門前払いにしたが、後に田中家は小沢氏だけ門前払いを許したのに対し橋本氏を許さなかった。
[編集] リクルート事件の発覚
1988年リクルート事件の発覚で竹下内閣の官房副長官だった小沢氏と幹事長代理だった橋本氏の名前が挙がった。しかし翌年に竹下首相が退陣し、後継首相に宇野宗佑外相が決定すると、宇野内閣では橋本氏が幹事長に就任し参院選を乗り切ろうとしたが、選挙結果は惨敗。開票中に橋本幹事長が「チクショー」を連発して女性票獲得に繋がりポスト宇野と囁かれたが、同氏の女性スキャンダルで橋本擁立は流れ、後継首相に海部俊樹が決まり、幹事長に小沢氏が就任し、橋本氏は大蔵大臣に就任した。
[編集] 金竹小支配から経世会の分裂・竹下派全盛期を迎える。
1991年東京都知事選で党本部の公認候補(公、民相乗り)が党都連の現職鈴木俊一知事に破れ小沢幹事長が辞任(後任に小渕恵三が内定)。また橋本蔵相もバブル崩壊の責任を取って引責辞任し11月には海部首相が退陣表明、後継首相を決める総裁選で当時経世会支配し批判的だったYKKの山崎拓(渡邉美智雄)、小泉純一郎(三塚博)、加藤紘一(宮沢喜一)3氏の領袖を競わせ竹下派事務所に呼びつけ金丸、竹下、小沢いわゆる金竹小による口頭試問を行い宮沢推薦を決め宮沢首相の誕生させる。
1992年6月PKO関連法案が国会通過の後に東京佐川急便事件が発覚し竹下派会長だった金丸副総裁が逮捕されると、領袖の跡目を巡って橋本小沢両氏の抗争が激化。橋本氏は同期の小渕恵三元幹事長を、小沢氏はこれまた同期の羽田孜蔵相をそれぞれ領袖候補に決め、領袖選挙の結果橋本氏が押し小渕元幹事長に決まった。小沢氏は、羽田氏らと44人が経世会から脱会し分裂する。宮沢改造内閣で小渕派厚遇され羽田派冷遇と言う人事を行い翌年の不信任造反に続く。
[編集] 自民党政権の崩壊・連立時代へ
1993年6月宮沢内閣不信任決議案が提出され当初は、与党の反対否決の公算があったが小沢氏の羽田派が不信任案に同調し可決=解散へ。羽田派は、自民離党から新生党を結成で小沢氏が党代表幹事(幹事長)に就任。7月の衆院選で自民惨敗、新生躍進となった。宮沢首相が退陣表明し7月末総裁選で河野洋平官房長官が新総裁に選出されると橋本氏が党政務調査会長に就任。この時に橋本政調会長が『下野の中で政調会長就任の何がめでたいものか』と発言。8月非自民連立政権による細川内閣の発足で自民党や野党に転落。小沢代表幹事が連立与党の責任者となる。
1994年4月細川首相が辞任し後継首相に羽田外相に決まり羽田内閣が発足するも、6月に自民党が羽田内閣不信任決議案提出を前に羽田内閣総辞職を表明。この時に橋本政調会長ら執行部が連立から離脱した社会党に水面下で接触し自社さ連立で合意させ、29日の指名選挙で与野党分裂に縺れ野党が押す社会党村山富市委員長が自民党を離党した海部元首相を破り首相選出へ。村山内閣の発足で橋本政調会長が通産大臣に就任。12月新進党結成で小沢前代表幹事が海部党首の下で党常任幹事会幹事長に就任。
[編集] 与野党党首として一龍対決の本格化
1995年阪神大震災や地下鉄サリン事件で立ち遅れた村山内閣の与党が地方選・参議院で敗北すると、9月の自民党総裁選で橋本通産大臣が新総裁に選出され、12月新進党党首選で小沢幹事長が新党首にそれぞれ選出された。
1996年1月村山首相が退陣すると首班指名で橋本総裁(衆288、参158)が、小沢党首(衆168、参69)押さえ首相選出へ。橋本内閣が発足。3月与野党大激突なる住専処理法案を巡り新進党がピケ戦術をはり、野党が傍線の構えを見せ橋本-小沢両党首を中心とする『一龍会談』を行い事態打開を協議する。4月住専法案が通過。小沢党首が金融特別委員会にて加藤幹事長の証人喚問を要求すると、与党は創価学会池田大作名誉会長の証人喚問を要求するなど半ば泥仕合となる。与野党は、加藤幹事長ならび創価学会秋谷栄之助会長(宗教法人特別委員会)の参考人招致で合意した。10月衆院選で新進党小沢党首は一気に政権奪取に動くが自民党橋本総裁(首相)は、『新進党は、創価学会に支配されている』や『新進党=創価学会』など新進党や創価学会のネガティブキャンペーンをはり、結果は自民党の政権維持で善戦し新進党は現有割れの敗北であった。
[編集] 一龍・終焉は、突然やってきた
1997年3月橋本首相と小沢党首が2度目の一龍会談を行う。橋本首相は前年の衆院選から新進党から離党工作を行い9月に北村直人議員の復党で衆院過半数を回復し、小沢党首は全からの離党者続出で解党危機を迎える中都議選が行われ新進惨敗で友党関係にある公明から新進党合流を白紙撤回され、12月新進解党で野党第1党党首から脱落。
1998年1月小沢党首が自由党を結成し党首に就任。一方の橋本首相は、例年の所信表明演説ではなく緊急の経済演説を行う。前年に銀行や企業の倒産が相次ぎバルブ以来の未曾有の経済不況によるものである。7月の参院選で自民が惨敗し橋本首相が退陣すると、後継総裁に小渕外相が就任。一方の小沢自由党は、橋本政権の経済政策を批判に集中し現有維持した。8月首班指名で自由党は、共産党と共に民主党の菅直人代表を統一首班候補に推薦し参院決戦投票(社民党や公明などの推薦で)で菅直人内閣総理大臣を指名したが両院協議会を経て憲法で国会=衆議院の議決で小渕首相が誕生する。
[編集] その後の一龍
1998年11月小沢党首は、古巣の自民党との政権協議に合意=自自連立政権(翌年に自自公)の発足。
2000年4月自自公連立政権から離脱(小渕首相が入院=退陣し森首相が誕生)し自由党は分党するも、6月衆院選に現有増の結果に終わる。橋本元首相が小渕前首相の後継の派閥領袖へ。
2001年4月復権を目指し森首相の後継の総裁選に出馬し小泉純一郎氏に惜敗した。小泉首相の誕生で田中政治の打破。
2003年9月自民党の総裁選で橋本元首相の橋本派が分裂選挙に追い込まれ小泉再選を許す。小沢党首は、菅代表の民主党と合併で合意し党代表代行に就任。
2004年日歯連献金疑惑に絡み橋本元首相が派閥領袖辞任並び派閥退会へ。小沢代表代行は、5月に年金未納で辞任した菅前代表の後任と騒がれたが本人が辞退し党の役職から去る。
2005年橋本元首相が政界引退へ。
2006年小沢元副代表が4月民主党代表選に出馬し菅前代表を破り代表に就任。6月橋本元首相が逝去。