ロイ・コーン
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ロイ・マーカス・コーン(Roy Marcus Cohn, 1927年2月20日 – 1986年8月2日)はアメリカ合衆国の検察官、のち弁護士。
マッカーシズムの時代に、赤狩りの急先鋒に立った。民主党員でありながら共和党出身の大統領の大半を支持し、「名前だけの民主党員」と呼ばれた。
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[編集] プロフィール
[編集] 生い立ち
ユダヤ系アメリカ人判事のアルバート・コーン(有力な民主党員)とドーラ・マーカス・コーンの息子としてニューヨーク市マンハッタンに生まれた。
[編集] ローゼンバーグ事件
20歳でコロンビア大学ロースクールを卒え、マンハッタンの連邦検事局に勤務。この時期、検事として共産党関係の重要な事件を多く扱い、熱烈な反共主義者として有名になった。商務省に勤務していた共産党員ウィリアム・レミントンが党籍に絡んで起した偽証事件や、悪名高いスミス法のもとで11人の共産党幹部が引き起こした騒擾事件、アルジャー・ヒス事件などを担当した。中でも有名なのは、1951年のローゼンバーグ事件での働きである。被告人の弟デイヴィッド・グリーングラスを反対尋問することで重要な証言(後年、偽証だったことが判明)を引き出し、ローゼンバーグ夫妻を死刑に追い込んだのはコーンだった。
彼はこの時の働きを大きな誇りとしていた。コーンの自伝によると、彼は検事だったにも拘らず、影響力を行使してアーヴィング・カウフマン(コーン家の旧い友人)をローゼンバーグ事件の担当判事に任命させた。カウフマンが死刑判決を出したのも、コーンの助言に従ってのことだったという。
[編集] 赤狩り
ローゼンバーグ事件での働きに注目したFBI長官ジョン・エドガー・フーヴァーは、当時24歳のコーンを、後に上院政府活動委員会常設調査小委員会の委員長となるジョセフ・マッカーシーに推薦した。コーンはただちに(他に候補に挙がっていたロバート・ケネディを下して)マッカーシーの主任弁護士となった。
やがてコーンは、赤狩りにおいてマッカーシーに次ぐ権力者となった。肩書は大陪審だったが、実質上は検事であり共産主義シンパと名指しされた者の糾弾者だった。彼の存在は、マッカーシズムの反ユダヤ主義的側面(赤狩りで審問を受けた人物はユダヤ人が多かった)を隠すために好都合だったという説もある。
[編集] 同性愛者
彼はまた、隠れた同性愛者でもあったが、表向きは自らがゲイであることを否定し、同性愛者の権利拡張に反対した。同性愛者は教職に就くべきでないと語ったこともある。証人や被告人に対しては、同性愛者であることを暴露されたくなければ法廷で検察に有利な証言をせよと圧力を行使することもあった。
[編集] 弁護士に転身
1954年のマッカーシー失脚後に弁護士に転身し、不動産王として有名なドナルド・トランプやマフィアのボスのジョン・ゴッティといった富裕層の有名人を顧客に持ち、さらに悪名をとどろかせることになる。また、リチャード・ニクソンやロナルド・レーガンといった共和党保守派で反共産主義者としても有名であった大統領と親交を結び、非公式の顧問ともなった。
[編集] 法曹資格剥奪
1970年代以降、彼は偽証や証人脅迫などの容疑で3回起訴されたが、いずれも無罪となった。しかし1980年代に、顧客の資産の横領や顧客の遺言の改竄強要といった非倫理的行為が弁護士会の追及を受け、法曹資格を剥奪された。その1ヶ月後にエイズによる併発症で死亡した。彼は死ぬまで自分の病気は肝臓癌だと言い張っていた。
[編集] 映画
劇的な生涯は、1992年のテレビ映画『市民コーン』などで取り上げられている。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
カテゴリ: アメリカ合衆国の法曹 | 1927年生 | 1986年没