ルネ・アルヌー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
F1での経歴 | |
国籍 | ![]() |
活動年数 | 1978 - 1989 |
所属チーム | マルティーニ, サーティース, ルノー, フェラーリ, リジェ |
出走回数 | 162 |
タイトル | 0 |
優勝回数 | 7 |
通算獲得ポイント | 181 |
表彰台(3位以内)回数 | 22 |
ポールポジション | 18 |
ファステストラップ | 12 |
F1デビュー戦 | 1978年南アフリカGP |
初勝利 | 1980年ブラジルGP |
最終勝利 | 1983年オランダGP |
最終戦 | 1989年オーストラリアGP |
ルネ・アルヌー(René Arnoux, 1948年7月4日 - )は、フランス人の元F1ドライバー。
目次 |
[編集] 概要
1977年ヨーロッパF2チャンピオンを経て、1978年にマルティニよりF1デビュー。1979年にルノーに移籍してから頭角を現す。1980年ブラジルGPにて初優勝。ルノーのエースドライバーとして活躍していたが、1981年からチームメイトとなったアラン・プロストとの確執もあり、1983年にフェラーリに移籍。この年3勝しシリーズ3位となり、トップドライバーとしての地位を確立する。
翌1984年もフェラーリより参戦。シリーズ6位と健闘したが、1985年の開幕戦終了後に突如解雇される。解雇の理由は定かではないが、不倫問題のこじれであったとされる。1986年にリジェより復帰するも、かつての速さを取り戻すことはできずテールエンダーの常連となる。1989年に引退。
[編集] エピソード
レースでは激しい闘志を見せ、その極北ともいえるのが1979年のフランスグランプリにおけるジル・ヴィルヌーヴとのラスト3周のバトルである。何度も順位を入れ替え、車体を互いにぶつけ合うほどの激しいドッグファイトはF1史上屈指と言え、その激しさにも関わらずレース後は双方が闘志を讃え合う爽やかさも残した。いっぽう、そのレースでの気性の激しさは時に方向性を失い、1982年のフランスグランプリでは再三のピットからのチームオーダーの指示を無視し、タイトル争い中だったチームメートのプロストをさしおいて自らが優勝し、結果的にプロストのタイトル獲得を阻んでいる。
日本でF1グランプリがテレビ中継されるようになった頃にはすでにF1ドライバーとしての峠を越していたが、青旗を無視した執拗なブロックをすることで有名となってしまった。当時F1中継の実況を担当していた古舘伊知郎に「妖怪通せんぼじじい」「走るシケイン」という、ありがたくないニックネームをつけられてしまう。ティエリー・ブーツェンはそのアルヌーの執拗なブロックの被害にあった一人であるが、ブーツェンの抗議にアルヌーは「悔しかったら7勝してみな!」と言い放ち、追い返してしまったというエピソードがある(ブーツェンは結局F1では3勝に終わる)。
また、日本人初のフルタイムF1ドライバー・中嶋悟もアルヌーの巧みなブロックにしてやられた一人である。1987年日本GP、アルヌーは2周先行する中嶋悟を、わざわざ過給圧を大きく上げてまで5周にもわたってブロックしつづけ、結局ガス欠で6周も残してストップしている。そして「このレースでは、私は絶対に負けるわけにはいかなかったのだ」と謎めいた発言を残した。かつての確執の相手であるプロストは、1989年のモナコグランプリで周回遅れのアルヌーに数周に渡りブロックされ、結果的にアイルトン・セナの独走を許し、セナの優勝をアシストされた形になった。いずれもリジェに移籍した後の出来事であり、リジェへの移籍はアルヌーの輝かしい経歴に傷を付けた形となってしまった。リジェへ移籍したことにより晩節を汚してしまった感は否めないが、1970年代後半から1980年代前半のF1を語る上では、無くてはならないドライバーである。
[編集] グランプリマスターズ
2005年11月、南アフリカのキャラミ・サーキットで開催されたグランプリマスターズ・第1回大会に参戦した。出走14台中、予選11位・決勝12位の成績を収めた(優勝はナイジェル・マンセル)。