メキシコの歴史
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この項では、メキシコの歴史について記述する。メキシコには2万年以上前に人類が進出し、高度な文明を築いた。しかし16世紀にスペインが進出してくると植民地化され、厳しい収奪が行われた。18世紀末にヨーロッパで革命が相次ぐと、メキシコでもメキシコ独立革命がおこり独立を果たした。その後帝政・連邦共和政・対外戦争など動乱をへて、1910年のメキシコ革命において近代的国家を実現した。
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[編集] 古代
2万年前の遺跡が発見されており、それ以前から人間が住んでいたと考えられている。マンモスなど狩猟および採集の生活をしていたが(この時代を、パレオ=インディアン期;Paleoindian period / stage 、若しくは石期 Lithic Period / stage という)、紀元前8000年ごろにトウモロコシの農耕が始まった。農耕が開始された時代を古期 (archic period / stage) という。紀元前2300年には最初の土器がつくられた。これ以後を形成期 (Formative period / stage) 若しくは先古典期 (Preclassic period / stage) という。メソアメリカ研究の最近の傾向としては、先古典期の区分名を用いる研究者が優勢になっている。
先古典期中期の紀元前1300年頃、メキシコ湾岸を中心にオルメカ文明が興った。オルメカの人々は、自然の丘陵を利用してサン=ロレンソ(ベラクルス州)、後にラ=べンタ(タバスコ州)という祭祀センターを築いた。オルメカ文明は、彼らの支配者の容貌を刻んだとされているネグロイド的風貌の巨石人頭像で知られる。一方、先古典期後期になると、ユカタン半島北部にコムチェン、ジビルチャルトゥン、カンペチェ州にもカラクムルなどいくつかのマヤ文明の祭祀センターが築かれた。
オアハカ州では、盆地北部の有力センター、サン=ホセ=モゴテの支配者たちが、盆地中央の小高い丘にモンテ=アルバンの神殿都市を築いた。モンテ=アルバンの盛んな征服戦争の勝利は、「ダンサンテ」と呼ばれるレリーフの捕虜たちの姿に表されている。また、モンテ=アルバンには、先古典期中期にすでに260日暦を使用していたことが石碑に刻まれている。
さて、先古典期も終わりごろに近い、紀元前後には、メキシコ中央高原のテスココ湖の東方にテオティワカンの巨大都市が築かれた。テオティワカンは、たちまちのうちにその経済力と軍事力でメソアメリカ全域を間接的に支配した。その力は、遠く、グアテマラのペテン低地のワシャクトゥンやティカルを支配する新王朝を築いたことによく現れている。また、モンテ=アルバンの南基壇にある石碑レリーフにもテオティワカンからの使者が来訪したことが刻まれている。両者は友好関係にあったと考えられている。
紀元後250年から300年頃から古典期 (Classic period / stage) が始まる。この時期、グアテマラのペテン低地及びその周辺にあるマヤ文明の著名なセンターが全盛を極めるが、それらのセンターのうち、ティカルと激しく争ったのがカンペチェ州にある「カーン王朝」の首都カラクムルであった。一方、チャパス州にある 「ラカムハ」という名で知られる都市パレンケは、ティカルの同盟者であったと考えられている。
メキシコ中央高原では、7世紀頃、テオティワカンが破壊され、トゥーラと呼ばれる群小都市国家群が割拠した。そのうち有力なのは、中央高原の南側に位置するショチカルコと北側に位置するイダルゴ州のトゥーラ=ヒココティトランであった。トゥーラ=ヒココテイトランは、古文献のトゥーラにほぼ同定されることからトルテカ帝国説を生み出したほどの力をもっていた有力なトゥーラであった。一方、テオティワカン崩壊後、マヤのセンターは一時的に繁栄するが、やがて戦争、乱伐による食糧不足、気候の変化、疫病、交易路の変化など複合的な要素によって疲弊し、9世紀頃に崩壊していく。これ以後からスペイン人による征服までの時期を後古典期 (Postclassic period / stage) と呼ぶ。
ユカタン半島では、チョンタル人ではないかと考えられる「プトゥン」商人によるユカタン半島沿岸沿いの交易活動がさかんとなり、ユカタン半島北部のチチェン=イッツアー、マヤパン、ウシュマルなどの都市国家がその恩恵を受けて繁栄した。ユカタン半島北部には、古典期の終末からこの時期にかけて、前述のウシュマルのほかに、ラブナー、カバー、サイールなどの都市国家ないしは祭祀センターが築かれ、プウク様式の名で知られる優美な建築物が建てられた。「プトゥン」商人たちは、コスメル島にイシュ・チェル女神の「神託所」を築いたため、コスメル島は繁栄していた。
メキシコ中央高原には、気候の寒冷化によって、北方からチチメカ人の侵略が開始される。そのために多くのトゥーラ群は破壊されたり征服されたりした。14世紀後半、テスココ湖の西岸にあるアスカポツァルコを首都とするテパネカ王国にテソソモクという英傑があらわれ、その傭兵部隊だったアステカ族は、テソソモク没後、15世紀前半、テスココ、トラコパンとともに三都市同盟を築き、テスココの名君ネサワルコヨトルの死後は、完全にリーダーシップを握ってアステカ帝国を形成する。アステカは、ベラクルス州からゲレーロ州までの一帯、オアハカ州の一部と、ソコヌスコと呼ばれるチャパス州の太平洋岸までの地域を征服する空前の版図を誇る帝国を形成していた。一方、ミチョアカン州には、ツィンツンツァンを都とするタラスカ王国があり、アステカ帝国と一歩も譲らぬ力を誇っていた。これら、メキシコに繁栄した古代文明は、ピラミッド型神殿や都市を築き、独自の宗教観に裏付けられた天文学によって正確な暦を発明していたこと、特に数学の分野では、人類史上初めてゼロの概念を発明したといわれる。
[編集] スペインによる征服
1519年にスペイン人エルナン・コルテスがメキシコに上陸。スペイン人をアステカの神ケツァルコアトルと思った皇帝モクテスマ2世はスペイン人たちを招きいれた。1520年に先住民の反乱がおきると一時撤退するが、アステカ帝国に圧迫されていたトラスカラ族の助けを得て反撃。一方のアステカ人はスペイン人の持ち込んだ麻疹や天然痘に苦しみ、スペイン人への抵抗は困難を極めた。モクテスマの甥である皇帝クアウテモックは首都から船で脱出しようとしたところをコルテス軍につかまり、1521年8月31日、アステカ帝国は滅亡した。 首都テノチティトランは破壊され、スペイン式の都市が建設されそれが今のメキシコシティになる。メキシコはスペイン副王領「ヌエバ・エスパーニャ(ニュー・スペイン)」となった。
スペイン支配が始めると、スペイン人が持ち込んだ麻疹や天然痘などの疫病によって、多くの先住民が命を落とした。 またスペインの植民地支配システムはエンコミエンダ制と呼ばれ、植民者に征服地の統治を委任する内容だったため、恣意的かつ搾取収奪的統治が行われた。また、スペイン人による先住民への苦役など苛酷な支配、従来の食糧生産システムの破壊による飢餓などが、先住民の死亡率を高めた。カトリック司祭であったラス・カサスはこのような事態を憂慮して、スペイン王室へ直訴したため、1550年には「バリャリード論争」とよばれる植民地問題に関する一連の議論が交わされた。しかし、メキシコでの先住民の人口は激減し、2500万人いた人口が100万人ほどに落ち込んだと言われる。
スペインによる支配は300年続いたが18世紀を迎えるとアメリカ独立戦争やフランス革命、ナポレオン戦争に影響され、土着のクリオーリョたちの間に独立の気運が高まった。
ナポレオン戦争の結果、スペイン王家がナポレオンに滅ぼされると、1810年9月15日にスペイン打倒を叫ぶメキシコ独立革命が始まり、長い戦いの火蓋が切られた。独立を求めて複数の民衆軍が決起し、1813年にチルパンシンゴ議会で独立を宣言したがこれは挫折した。1815年以後は当初の指導者たちはほとんど処刑され、以後独立運動は山間部での散発的なゲリラ戦になった。
しかし1820年にスペイン本国で自由主義的なリエゴ革命が起きると、植民地の王党派・保守派は反発してスペインへの抵抗を叫ぶようになった。この時流をうまくつかんだクリオーリョの軍人、アウグスティン・イトゥルビデがメスティーソやインディオを含む独立派ゲリラ軍と、保守的クリオーリョらを、「スペインへの反発と独立志向」という共通点でまとめることに成功し、副王以下の植民地軍は屈服した。1821年にはヌエバ・エスパーニャは廃止されメキシコは独立を達成した。
[編集] 独立後
1821年9月15日独立闘争の指導者アウグスティン・イトゥルビデがメキシコシティに入城し独立を宣言。カトリック信徒の保護と財産の保護、人種的平等を謳い「メキシコ帝国」を樹立。翌年には皇帝アウグスティン1世として中米制覇の野心をあらわにするが、共和派による革命で打倒され、1824年には連邦共和国となった。その後、カウディーリョと呼ばれる軍閥政治家たちが権力闘争を展開し、国政は乱れた。
1846年にはテキサスを巡りアメリカ合衆国と戦争を起こし(米墨戦争)、敗北。1848年に終結するとテキサスのみならずカリフォルニアなどリオ・グランデ川以北の領土(いわゆるメキシコ割譲地)を喪失した。1850年代には失地の回復を目指すメキシコはイギリスやフランスなどの支援を受けて再戦準備を整えるが、クリミア戦争により主要支援国の財政状態が悪化したため計画自体が頓挫。のちに膨らんだ有償支援の返済が追いつかなくなり債務不履行を宣言したため債権国のフランスとスペインによる介入の遠因にもなった。
1854年には自由主義に基づいた「リフォルマ」と呼ばれる改革が行われ、政教分離、自由主義憲法の制定が行われた。しかし、この改革の指導者のベニート・フアレス大統領に対して保守派が反発し、内戦を招く結果となった(リフォルマ内戦)。
この内戦はフランスのナポレオン3世の干渉を招き、1862年にフランス外人部隊を含む精鋭がベラクルスに上陸しメキシコ征服をたくらむが、プエブラの会戦でフランス軍が敗北して撃退された。しかし、メキシコにおける「カトリック帝国」樹立という野心を持つナポレオン3世はオーストリア・ハンガリー帝国皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の弟マクシミリアンをメキシコ皇帝として送り込んだ。若干の抵抗はあったものの当初はフランス軍優勢で進んでいたが、1865年に南北戦争を終結させたアメリカがメキシコへと物資の供与を始めたため1867年にフランス軍は撤退を余儀なくされ、最終的にマクシミリアンは銃殺された。
1876年にはフランス干渉戦争の英雄ポルフィリオ・ディアスが政権を樹立し、独裁体制をしいた。ディアスは軍事独裁体制と積極的な外国資本の呼び込みなどで、治安の改善と経済の成長を実現させたが、農村部はひどく疲弊し、労働者は困窮した。そのため各地でゼネストが発生するなど、社会不安が増大しそれに危機感を擁いた知識人から変革の声があがり、革命が勃発した。
[編集] メキシコ革命
1910年に革命は勃発。ディアスの再選阻止運動に始まり、農地改革運動へと広がりを見せた。その結果、ブルジョワおよび地主層と農民との対立が激しくなった。1917年に革命憲法が発布され、革命は終息する。
1934年に成立したカルデナス政権は国有化事業や土地改革を行い、国内の経済構造は安定した。
[編集] 第二次世界大戦後
第二次世界大戦の後はメキシコは順調な経済成長を見せ、政権も制度的革命党政権によって民主主義が維持され、1968年にはメキシコオリンピックを開催している。しかし1982年には1,000億ドルを超える累積債務問題が表面化し、メキシコの国民経済は危機に直面する。1986年にはデ・ラ・マドリ政権が経済自由化を推進し、経済状況が改善された。続く、サリナス政権でも石油価格の上昇が産油国メキシコの追い風となり経済は堅調を維持した。1992年にはアメリカ合衆国とカナダと北米自由貿易協定(NAFTA)を締結。さらに1996年には中米自由貿易圏の設立の運びとなった。
しかし、政治面では国内のサパティスタ国民解放軍など少数民族の武装集団の運動が活発になり1994年には大統領候補コロシオが暗殺された。その首謀者の疑惑を持たれた現職のサリナス大統領は任期途中で海外に逃亡した。
また、ヘッジファンドによって一時通貨危機も経験している。