ファッション
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ファッション(和製英語)とは、服飾や髪型、化粧のスタイル(装い)のことで、なかでも人々のあいだで流行している服装を指す。
英語で流儀や流行を意味する(動詞としては形作ることを意味する)fashionが語源であるが、日本語に取り入れられた際には狭い意味で冒頭のような意味のみを指す言葉になった。本来の「流行」の意味は薄れ、「定番のファッション」「独特なファッション」、さらには「ファッションの流行」という日本語の言い回しも可能となっている。
毎年様々なファッションが生まれているが、ファッションを生み出しているのは現在でもファッションデザイナーの役割である。しかし最近の日本では、一部の流行を紹介するファッション雑誌や、「ストリート」が新たなファッションの作り手となることもあり、多様化している。(ファッションの流行色の場合は、まず「JAFCA|日本流行色センター(日本ファッション協会内に設置)」が二年前から実シーズンの流行色をグループ化して選び設定し、一年半前に発信する。ファッション業界や出版界はそれを参考に、流行色に沿った商品や企画を作成。トレンドとして生活者にアプローチ、発信。)
服装や、髪型などの今の流行を紹介するファッションショーが世界各地で行われている。
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[編集] 用語
- オートクチュール - フランス語で「特注の仕立て服」の意。いわゆるオーダーメイドなのであるが、ファッション業界内でオートクチュールといえば通常、「サンディカ」と呼ばれるパリの高級服専門の組合に所属している店の商品に限られる。また、パリとローマで1月と7月に開催される「オートクチュール・コレクション」は、前述の「サンディカ」に所属するメンバーと、その他の少数のメゾンにしか発表が許されていないファッションショーである。
- プレタポルテ - いわゆる「既製品」であるが、通常は一流のデザイナーがデザインを手掛け、仕立てた既製品にのみ当てはめられる言葉。こちらもオートクチュールと同じく「コレクション」と呼ばれるファッションショーがあり、2月 - 4月、9月 - 12月までの間。ニューヨーク、ロンドン、ミラノ、パリ、東京の順で開催されるショーである。
- 古着 - 一度商品として市場に出回り、所持者がその所有権を放棄した服を、古着業者が回収して販売している物。特に価値の高いものをヴィンテージと呼ぶことがある。
- アウトレット - わずかな瑕疵品や余剰生産品などを、正規店よりも安い値段で売ること。ここで売られる品はアウトレット品、そのようなものを扱うモールは、アウトレットモールと呼ばれる。
- 裏原宿 - 日本を代表するファッション情報の発信地の一つ。 渋谷区神宮前周辺がこれに当る。流行の仕掛け人として裏原宿創世記からマルチに活躍するDJ藤原ヒロシ氏が裏原宿文化に与えた影響は大きく、彼に続くカリスマ性を持つ仕掛け人も続々と登場している。BEAMS・SHIPS・UNITED ARROWSなどに代表されるセレクトショップが扱うカジュアルなスタイルが特徴。インディーズブランドやエスニックなスタイルも多用されている。
- リアルクローズ 女性ファッション雑誌キャンキャンの専属モデルなどが提案するファッション。普段着で価格が安く手に入りやすい。世界一、ファッションにお金をかける若い日本人女性、世界一、ファッション雑誌を出版する日本にとって強い影響力を持つと言われている。
- 流行色日本ファッション協会内に設けられた「日本流行色センター(JAFCA)」が実施年の2年前に流行色をテーマに沿って選定。その後、実施年1年前にはファッション業界や出版社に流行色の情報が提供される。社会情勢や、トレンドの変革により、流行色が必ずしも流行るとは言えないが、大きなトレンドの目安として位置づけられている。
[編集] 洋服文化とファッション―日本における歴史
日本において、服装の西洋化が広まることとなった直接の要因は1858年の日米修好通商条約に遡るといわれている。この条約により各地の港が開かれ、役人や通訳などの直接外国人と交渉をする立場の人間を中心として服装の西洋化が広まっていくことになる。 (1543年の種子島へのポルトガル船漂着時より鎖国までのしばらくの間にも、一部の大名などに贈呈されるなどして少数ながらも流通はしており、江戸時代末期では長崎の出島などでは特別珍しいものではなかった)
1864年、禁門の変を理由に長州征伐の兵を挙げた幕府は、その時の軍服を西洋式にする事に決め、急遽小伝馬町の商人である守田治兵衛(上田とも)が2000人分の軍服の製作を引受け、試行錯誤しながらも作り上げた。日本においての洋服の大量生産は記録に残る限りこれが初である。また、断髪令により髪型も従来の髷から散切り頭になった。
その後しばらくは小規模ながらも各地に洋服の貸出し店や洋服販売店ができ、1871年(明治4年)、陸軍や官僚の制服を西洋風に改める事を定めた天皇の勅諭(太政官布告399号「爾今禮服ニハ洋服ヲ採用ス」)が発せられ、以後警官、鉄道員、教員などが順次服装を西洋化する。
1923年(大正12年)、関東大震災で、身体の動作を妨げる構造である和服を着用していた女性の被害が多かった事から、翌13年に「東京婦人子供服組合」が発足、女性の服装にも洋式化が進むことになる。
1927年(昭和2年)9月21日、当時の銀座三越において日本国内初のファッションショーが開催される。これは一般よりデザインを募ったファッションショーでもあった。また、日本橋にあった「白木屋」デパート(後の東急百貨店日本橋店の前身、日本橋店は1999年に閉店、現在の「コレド日本橋」の場所)にて発生した大規模火災で、やはり和装の人々に被害が多かったことも相まって、従業員の服装を洋式に改める百貨店が増加し、更にそれに倣う形で、大衆の服装の洋式化も徐々に広まった。
1930年代後半から1940年代前半にかけては戦時体制により繊維、衣服の統制が極端に進み、さらに百貨店自体の売り上げも低迷した時期でもあった。
1945年に衣料切符制度がとられ、国民服と呼ばれる統一規格の洋服が配給され、数少ない配給衣服の着用での生活を余儀なくされる。絶対量が少なかった為、和服をもんぺに作り替えた女性も多かった。
戦争による壊滅的な打撃を受けた日本は、敗戦後はアメリカなど連合国からの援助に頼ることになった。食料など様々な物資不足はもとより、衣服も不足し闇市でも入手できない立場の大衆は、1948年からGHQの放出衣料による古洋服の着用を始める。戦争からの開放感もあり「占領軍ファッション」として、中古アメリカ衣料への傾倒が起こり、戦後初めての流行感覚が生まれた。
ナイロンをはじめ化学繊維の統制撤廃の後、化学繊維を使用した衣服が作られ始めるのは1951年頃である。日本の繊維産業はすべて手探りの状態から、ビニロンやテトロン、レーヨンなどの合成繊維の開発、製造を始めた。
1953年(昭和28年)には、当時ヨーロッパで隆盛を極めたファッションデザイナーのクリスチャン・ディオールが来日し、海外ファッションの導入が始まった。当時の洋服は基本的に注文品で、オーダー服を基軸にしたオートクチュールであった。しかし、日本国内では繊維不況のあおりを受け、そのような華やかな最新ファッションには大衆は手が出なかった。
1958年(昭和33年)には、同じくピエール・カルダンが来日。量産のプレタポルテの時代の到来を告げる。当時、オーダー服と量産既製服の占める割合は7対3にまでなりつつあった。この後、1960年代以降から衣料の大量消費の時代が始まることになる。しかし、一般には修繕した継ぎのあたった衣服は、家庭での普段着や作業着にまだ多く目につく時代だった。