ニケフォロス1世
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エピロス専制侯国のニケフォロス1世は、ニケフォロス1世 (エピロス専制公)を参照のこと。
ニケフォロス1世(Nicephoros I ギリシャ語表記:Νικηφόρος Α' 760年?-811年7月26日)は、東ローマ帝国の皇帝(在位802年10月31日-811年)。
ニケフォロスは、イスラームの史書には古代末期にアラビア半島北部にあった帝国の衛星国・ガッサン朝の王家の子孫であると記載されているが、真偽は不明である。エイレーネーの時代に税務長官であったが、802年10月31日のクーデターの中心人物として、エイレーネーを退位に追い込んで即位した。このクーデターには彼の他にも司法長官や近衛部隊長官(ドメスティコス・トーン・スコローン)、さらにはエイレーネーの一族すら参加していた。翌年、ニケフォロス1世の即位に反対するバルダネス・トゥルコスが反乱を起こすが、彼はすぐに投降したため、大きな混乱にはならなかった。
ニケフォロス1世は、財務官僚としての経験を生かし、エイレーネーの政策により危機的な状態にあった財政の再建に着手した。彼の経済政策は、ニケフォロス1世の同時代人でエイレーネーの支持者でもあった年代記作者テオファネスが詳しく報告している。テオファネスによると、彼が行ったもっとも重大な悪政は以下のようなものである。
- 人々をスクラビニア(「スラブ人の土地」の意味)へと強制的に移住させた。
- 貧民も徴兵し、装備を自弁できない者には同じ村の人々に代弁させた。
- 財産調査を行って増税し、手数料も徴収した。
- (エイレーネー時代に)減税されていたものをもとに戻した。
- 慈善施設などの小作農に人頭税を課した。
- 宝物を急に得た人に課税した。
- 20年以内に瓶や容器を発見した人に課税した。
- 過去20年以内に遺産を相続した人に相続税を課した。またアビュドス以外で取引された家内奴隷に課税した。
- 小アジアの船乗りたちに、強制的に土地を購入させた。
- コンスタンティノープルの船乗りたちに強制的に資金を貸し付けた。
これらの政策は、基本的にはエイレーネー時代の減税の廃止や、徴税の厳格化などであり、ニケフォロス1世の経済政策への知識が遺憾なく発揮されている。また船乗りたちに対する政策は、彼らの生活基盤の強化や商業活動支援政策になったと考えられる。
また住民の移住政策は、当時帝国領に復帰してまもなかったギリシャ地区、特にペロポネソス半島に対する支配強化と、中部地中海への進出の始まっていた北アフリカのイスラーム勢力に対する防衛強化策であると考えられている。なおこれらの政策はエイレーネー時代から受け継がれたものであり、ニケフォロス1世はバルカン半島に新たにテマ・テッサロニキ、テマ・ペロポネソス、テマ・デュラッキオンを設置した。またテマ・ケファレニアもニケフォロス1世が設置した可能性がある。
ニケフォロス1世の時代、フランク王国のカール大帝とは、800年のクリスマスにカール大帝が獲得した西ローマ皇帝の称号を巡って交渉が続けられたが、彼の治世の間には交渉は妥結しなかった。また反乱を起こしたヴェネツィアに対して、809年に艦隊を派遣している。さらに彼は帝国の東西で軍事遠征を繰り返して行っている。しかしこれらの多くは成果を挙げることがなかった。東方のアッバース朝に対しても何回か軍事遠征を行うが、ハールーン・アッ=ラシードの反撃に遭って敗北し、貢納金を支払う条件で和約を結んでいる。
一方彼の時代にはブルガリアがクルム王のもとで勢力を拡大し、エイレーネー時代に回復したテマ・マケドニアやテマ・トラキアなどへの侵入を繰り返していた。ニケフォロス1世はこれに対しても何回か軍を派遣する。そして811年にはブルガリア領内に大軍を率いて侵入し、首都プリスカを制圧・焼き打ちした。クルムはこの時和平を乞うたがニケフォロス1世は応じなかった。だがその直後、バルカン山脈の山中でブルガリア軍に襲われて戦死し、遺体すら発見できなかった。ローマ皇帝の戦死は、ウァレンス以来のことである。
なお後代の史書には、ニケフォロスがクルムの元に引き出されたり、ニケフォロスの頭蓋骨が金箔を貼られ、クルムの酒杯にされてしまったなどと書かれているものがあるが、これらはみな後代の伝説である。
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