テッサロニキ
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テッサロニキは
テッサロニキ(Θεσσαλονίκη、ラテン文字転写:Thessaloniki)はギリシャの第二の都市。中央マケドニア地方の首府である。古代においてはテサロニケと呼ばれ日本語でも表記されることが多い。またテサロニカ(Thessalonica)、サロニカ(Salonica)とも呼ばれる。人口は363,987人、郊外まで含む大都市圏では809,457人である。
[編集] 地理
トルコに近く、文化も首都のアテネよりもかなりトルコに近い。またビザンティン(東ローマ)帝国時代の教会や城壁が多数残されており、アテネが古代ギリシャを象徴する街なのに対して、中世ビザンティン時代のギリシャを象徴する街だと言われている。アトス山の修道院共同体もこのテッサロニキが入り口となる。
[編集] 歴史
テッサロニキは紀元前315年前後にマケドニア王アレクサンドロス大王によって創建。王妃の名を取りテサロニケーと名付けた。紀元前168年にマケドニア王国が滅びてから、共和制ローマ領の都市となる。ビザンチウムへ向かうエグナティア街道沿いの重要拠点となり、東西の交易路として栄えた。ローマが東西に分割されたあとは、東ローマ帝国の権力下に置かれ、ビザンティン帝国第二の都市として栄えた。
1430年にオスマン帝国によって占領され、以後オスマン帝国の都市となる。トルコ人からはセラーニク(Selânik)と呼ばれた。この期間、イスラム教徒とユダヤ教徒の人口が増え、社会基盤が整備されていった。バルカン半島の中心都市として、東西貿易の拠点としてオスマン帝国でも最も重要な都市の一つとなっていた。1888年に鉄道が敷設され、1896年から1904年の間には港湾が整備された。現代トルコの建国の父、ケマル・アタテュルクは1881年にこの町で生まれた。青年トルコ人革命はここが本部となっていた。
1912年にバルカン戦争でギリシャ軍がテッサロニキに攻め込み、オスマン帝国領から奪還。1913年にギリシャの国王ゲオルギオス1世がテッサロニキ訪問中に暗殺されるという事件が起こった。1915年には第一次世界大戦の最中、連合国軍がテッサロニキに集結し、ドイツ・ブルガリア連合軍と対峙した。ギリシャの当時の首相エレフテリオス・ヴェニゼロスは当時の国王の反対を押し切りここに臨時政府を建てた。1917年8月17日の大火災で町のほとんどが消失し、エレフテリオス・ヴェニゼロス首相の命でフランス人設計による都市計画による欧州的な近代都市が建設された。その後希土戦争が勃発し、小アジア地方からの多くの難民を受け入れた。
第二次世界大戦時には、1941年4月から1944年10月までナチス・ドイツの支配下に入り、連合国軍側からの空爆で町は被害を受けた。
1978年6月20日にマグニチュード6.5の大地震に見舞われた。 1988年には町のビザンチン様式の建築群がユネスコ世界遺産に登録された。
[編集] 交通
- テッサロニキ・マケドニア国際空港(Thessaloniki International Airport, "Makedonia")