ドレッドノート (戦艦)
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艦歴 | |
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起工 | 1905年 |
進水 | 1906年 |
就役 | 1906年 |
退役 | 1919年 |
性能諸元 | |
排水量 | 21,845トン |
全長 | 160m |
全幅 | 25m |
吃水 | 8m |
最大速力 | 21ノット |
乗員 | 695 - 773名 |
兵装 | 30.5cm連装砲5基 7.6cm単装砲27基 45cm魚雷発射管(水中)5門 |
装甲 | 舷側 279mm 甲板 76mm 主砲防盾 279mm 司令塔 279mm |
ドレッドノート(HMS Dreadnought)は英国海軍の戦艦。同名の艦としては六隻目で正確な意味での同型艦は存在しない。日本語のド級(弩級)、超ド級(超弩級)、ド級艦(弩級艦)と言う表現、及び一般的なフォークギターのサイズを表すドレッドノート型と言う表現は本艦に由来する。
目次 |
[編集] 誕生の経緯
1900年頃まで、海戦における砲弾の命中率は個々の大砲を操作する砲手の腕前にかかっていた。すなわち敵との距離・方位を砲手が判断して、大砲の仰角・旋回角を決め射撃しており、これを独立撃ち方と呼んでいた。これに合わせて大砲も敵艦水線部の装甲を破る主砲を艦首尾に各2門、上部構造を破壊するための副砲や中間砲を舷側にずらりと並べていた。この方法は砲戦距離が数千mまでは有効だが、それ以上の距離では着弾地点の正確な観測が難しく、命中を期待しにくい。このため艦砲の長射程化とともに、命中率の高い新しい射撃方法が模索された。当時イギリスでは多数の同一口径砲が同一のデータを元にした照準で同時に弾丸を発射し、着弾の水柱を見ながら照準を修正してゆく『斉射』の有効性が認識された。日露戦争初期の黄海海戦では実際に最大砲戦距離は10000m以上に及び、日本海海戦では日本海軍は独立撃ち方を止め艦橋から一元的に距離を指示し、砲側では一切修正しないという斉射に近い射撃方法に変更していた。この頃イギリス海軍卿に就任したジョン・アーバスノット・フィッシャー(John Arbuthnot Fisher, 1st Baron Fisher of Kilverstone, 1841年1月25日 - 1920年7月10日)提督は斉射の有効性を強く認識し、彼の強い指導の元に『長距離砲戦に圧倒的に優位な』戦艦として建造されたのがドレッドノートである。
因みに、フィッシャー卿は強引で奇抜な発想の持ち主でもあり、ハッシュハッシュクルーザー計画[1](前代未聞の単一作戦用大型軽巡洋艦建造計画)を強行したことでも有名である。
[編集] 概要
中間砲を撤廃して単一口径の連装主砲塔5基で構成する事によって当時の戦艦の概念を一変させた革新的な艦であった。これにより片舷で四基八門の砲が使用可能となり、そのため、一見「本艦一隻で従来艦二隻分」以上の戦力に相当すると言われたが、長距離砲戦での有効性はそれ以上であった。また従来の戦艦の速力がレシプロ機関で18ノット程度であったのに対し、タービン機関の採用により一躍21ノットの高速を得た。
[編集] 歴史的意義
これらの結果ドレッドノートは以前の艦に比較して圧倒的に強力な戦艦となり、その後建造された類似艦を弩級艦と呼んだ。数年後には弩級艦を凌駕する超弩級艦の誕生を引き起こし世界各国の大建艦競争時代、ひいてはその先の、ワシントン海軍軍縮条約から始まる海軍休日時代(Naval Holiday)の遠因にもなったのは、史実の知るところである。それに付随し、本艦進水以前に就役・建造中だった全ての戦艦が一気に旧式化してしまった。事態は深刻で、その例としては当時建造中だった日本海軍の薩摩型やイギリス海軍のロード・ネルソン級、フランス海軍のダントン級などが全て就役前に旧式艦の烙印を押されてしまった。
通例では、本艦以降の登場する本艦と同一思想の艦はド級艦、それに対して本艦以前の艦は便宜上前ド級艦と呼ばれた。その後、中心線上に全主砲塔を背負い式に配置され、全ての砲が両舷に向けられ、口径、砲身長、装甲のどれをとっても本艦を凌駕する性能を持つイギリス海軍の戦艦オライオン級(1912年竣工)が完成すると、それ以降に計画・建造される同種の艦を、先例に倣って超ド級艦と通称されることになる。例をあげると、ドレッドノートより強力な主砲と高速力を有するが装甲の薄い超弩級巡洋戦艦ライオン級(1912年竣工)や金剛型(1913年竣工)がそれに該当する。
ドはドレッドノートつまり本艦それ自体を指すので本来はド級と表記するのが正しい。漢字の弩級は完全な当て字である。ド級(弩級)、超ド級(超弩級)は、本艦の性能が当時の列強が保有していた艦の性能をあまりにも凌駕していたために成立した言葉だが、後にはそこから派生して、大きさや迫力が他を圧倒している意味に使用されるようになった。
なお、本艦以降に同一思想で建造された艦に日本の河内型戦艦があるが、口径は同一だが砲身長が違うため、内包炸薬量が違う二種類の砲弾を用意する必要という不都合を生じた。このため、例外的に前ド級艦的扱いをする研究者も多くいることを補足しておく。
[編集] ドレッドノート・ホウクス(贋エチオピア皇帝事件)
1910年には悪名高い担ぎ屋ホーレス・デ・ヴェレ・コールが、「アビシニアの王族」の旅行のために、ドレッドノートを使用できるように、と英国海軍を説得した(贋エチオピア皇帝事件)。実際には「アビシニアの王族」は作家のヴァージニア・ウルフを含む彼の友人達の仮装であった。この一件はドレッドノート・ホウクスとして知られるようになった。コールがドレッドノートを選択したのは同艦が最も有名な英国海軍のシンボルであったからだが、1910年の時点ですでにドレッドノートは旧式艦であった。
[編集] その後の活躍(解体まで)
ドレッドノートの誕生以後戦艦の発展は早く、第一次世界大戦開戦時には、既に本艦を凌駕する超ド級艦が登場していたため第一線の主力艦では無くなり、最初の二年間は北海の第四戦隊に所属した。その時期の1915年3月18日、ドイツの潜水艦U-29を体当たりで沈めたことが最も重要な戦果であるのは、本艦にとって出来過ぎた皮肉である。1916年5月低速から艦隊に随行することが困難だったため、テムズ川の第三戦隊の旗艦となりドイツの巡洋戦艦に備えたが、ユトランド沖海戦(独名、スカゲラク海戦)には改修のため、参加していない。1918年3月から8月まで本国艦隊に戻り、戦後はロシスで予備役となり、1920年3月31日に退役。1922年にT・ウォード・アンド・カンパニーに売却、1923年にインバネスで解体された。
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