ソフィア・コワレフスカヤ
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ソフィア・ヴァシーリェヴナ・コワレフスカヤ(Софья Васильевна Ковалевская, Sofja Vasiljevna Koval'evskaja, 1850年1月15日(ユリウス暦1月3日)モスクワ - 1891年2月10日(ユリウス暦1月29日)ストックホルム)はロシアの数学者。愛称はソーニャ、コワレフスカヤはコヴァレフスカヤとも訳される。ロシアでは初めて、ヨーロッパを含めても三番目に大学教授の地位を得た女性である。ちなみに一番目はラウラ・バッシ、二番目はマリア・アニェージMaria Gaetana Agnesi、いずれもイタリア人。
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[編集] 家族
1850年、モスクワで生まれる。父はポーランド系の砲兵隊将校(のちに将軍)ヴァシーリイ・ヴァシリエヴィチ・クルコフスキ(Wasilij Wasiljewicz Krukowski, 1800年 - 1874年)で、ハンガリー王国国王マーチャーシュ・コルヴィヌスの遠い子孫である。1858年、ロシア政府当局は彼に貴族としての地位を認め、姓をコルヴィン=クリュコフスキー(Korvin-Krjukovskij)として家名に「Korvin」(ラテン語の「Corvus(カラス)」に由来するクルコフスキ家の紋章)を付け加えることを許可した。ちなみにポーランド名クルコフスキもポーランド語の「kruk(カラス)」が語源である。
母親エリザヴェータ・フョードロヴナ・シューベルトはドイツ人で、その父はアカデミー会員フョードル・フョードロヴィチ・シューベルト、祖父はテオドール・シューベルト(別名フョードル・イヴァノヴィッチ・シューベルト、サンクトペテルブルク科学アカデミーの数学者・天文学者)であり、夫よりも教養豊かな女性であった。
ソフィアは父方の祖父がポーランド人だったこともあり、19世紀当時ロシアに制圧されていたポーランドの革命運動に対しては、他のロシア人に比べて深い理解を持っていた。
[編集] 幼少期
幼少期のソフィアが数学に関心を持つようになったきっかけは父と叔父によって与えられた。彼女の父は、家の子供部屋の壁紙が足りなくなったときに、軍隊で微積分学を学んでいたころに使ったオストログラズキーMikhail Vasilievich Ostrogradskyの教科書を破いて貼り付けておいので、ソフィアは数学記号を眺めながら成長することになった。彼女の叔父、ピョートル・ヴァシリエヴィッチ・クルコフスキーは独学で数学を研究したアマチュア数学者だった。ソフィアはこの変わり者の叔父に憧れて彼から数学を教わり、子供のころから不思議に思っていた記号の意味を理解して関心を深めたという。
しかし、当時のロシアではどれだけ才能があっても女性は大学に入れなかったので(以下に見るように、彼女が功績を成し遂げたのも、それを評価したのもほとんどが外国においてのことであるのはそのためである)、ソフィアの父は彼女に数学の勉強をやめさせてしまった。そのため彼女は、家族が寝静まった夜中に借りてきた代数学の本などをこっそりと読んでいたという。
ソフィアが12歳のとき、近所に住んでいた物理学の教授が光学に関する本を彼女に与えたところ、当時まだ三角関数を知らなかったソフィアは自力でそれを解釈しようとした。彼女は三角関数が数学の歴史において展開されてきたのと同じ方法でそれについて説明してみせたので、仰天した教授は彼女を「パスカルの再来」とまで呼び、家庭教師をつけて数学の研究を続けさせてやれと彼女の父に嘆願したので父も折れたという。
上述のとおり、当時のロシア人女性は国内で高等教育を受けることができなかった。しかも夫や父親の許可証なしに家族と別居して外国へ行くこともできなかったのである。そのため、ドイツやフランスの大学へ留学することに憧れていた上流階級の進歩的な女性たちのあいだでは、やむをえず偽装結婚する者が多かった。父から許しを貰えるとは考えられなかったのでソーニャも同じ手段をとることにして、1868年、若き地質学・古生物学者ウラジミール・コワレフスキーと契約結婚した。
[編集] ヨーロッパの大学へ
1869年、コワレフスカヤはハイデルベルク大学へ出発するが、ここでも女性の入学は受け付けていないということを知らされる。何とか大学当局へ食い下がり、講師の許可を得た上で非公式の聴講生として受講する許しを得て、レオ・ケーニヒスベルガーLeo Königsbergerのもとで楕円関数を学ぶ。他にグスターブ・キルヒホッフ、ヘルマン・フォン・ヘルムホルツらの物理学の講義も受け(受講はしていないがローベルト・ブンゼンとも知遇を得ている)、三学期間を優秀な成績で修了した。彼らはみな当時珍しかった女性数学研究者の才能に賛嘆している。直接指導に当たったケーニヒスベルガーは自分の師であるカール・ワイエルシュトラスに対する尊敬の念をつねづね語っていたので、コワレフスカヤはワイエルシュトラスのもとで学ぶ決意を固め、1871年、ベルリン大学へ向かう。
ワイエルシュトラスははじめコワレフスカヤの弟子入りを断ろうと思い、テストを兼ねて難しい問題を出すが、彼女が難なく解いたのを見てその才能を知り、以後、ワイエルシュトラスはコワレフスカヤが早すぎる死を迎えるまで公私にわたる指導者・協力者となる。ワイエルシュトラスは彼女を自分の講義に迎え入れようとするが、しかしここでも女性であるがゆえに大学評議員会から拒否されたため、ワイエルシュトラスはコワレフスカヤの家庭教師として、四年間にわたって個人的な薫陶を授ける。
[編集] 全盛期の業績
1874年、ゲッチンゲン大学からコワレフスカヤの三つの論文に対し、数学の学位が与えられた。これらの論文のテーマは「偏微分方程式についての理論」「(それを適用した)土星の環の形についての研究」「アーベル関数についての研究」である。特に「クレレ・ジャーナルCrelle's Journal」に発表された偏微分方程式についての研究は初期値問題の解が一つであることを示したもので、現在では「コーシー・コワレフスカヤの定理Cauchy-Kovalevskaya theorem」として知られる(コーシーが特異解を、コワレフスカヤが一般解を与えて理論を完成させた)。
同年に彼女はロシアへ戻ったが、この学位とワイエルシュトラスの強い推挙により数学者としての名声は知れ渡っていたにもかかわらず、やはりサンクトペテルブルク大学で職を得ることはできず、声が掛かった中で最もマシな職は小学校の算数の先生であったという。落胆の上に父の死なども重なったため、コワレフスカヤは気晴らしのため社交界デビューしたり文学に手を染めたりなどして(コワレフスカヤの文才については「その他」を参照)、以後六年間にわたり数学からは手を引くこととなり、ワイエルシュトラスとの交友も途絶える。容姿が優れていたため社交界では有名になるが、1878年に娘が産まれて周りが静かになったのをきっかけにして再び数学への情熱が目覚める。
1880年、コワレフスカヤはモスクワへ行くが、大学で博士号試験を受けることは認められなかった。翌年、教授職を得るため彼女はモスクワを去り、ワイエルシュトラスを頼ってベルリンとパリへ向かった。モスクワを去ったのには、事業に失敗して以降彼女と意見の合わなくなっていた夫との別居という意味も含まれていた。
1882年から彼女は結晶体における光の屈折に関する研究に打ち込み、三本の論文を執筆する(ただし、この論文が依拠していたガブリエル・ラメGabriel Laméの研究に含まれているのと同じ誤りをおかしていることが1916年ヴィット・ヴォルテラによって指摘された)。
1883年3月、パリ滞在時に夫コワレフスキーが自殺。さすがにショックを受けた彼女は、引きこもり、拒食、失神、目を覚ますと同時に手元のノートに数式を書きなぐる、という荒んだ生活を続けることになったが、同年の秋には立ち直った。
1884年秋、ミッタク=レフラー(Gösta Mittag-Leffler、スウェーデンの数学者。コワレフスカヤと同じくワイエルシュトラスの弟子で、彼の伝記も書いた。関数論、楕円関数論、アーベル関数論など。当時ストックホルム大学の学長だった)の招聘でついにストックホルム大学の非常勤講師の地位を得て、のち1889年にはロシア人女性としては初の大学教授になった。ストックホルムは彼女の終生の地となる。
終生の地となるストックホルムで教授職を務める一方、アーベル関数についての新しい理論を適用することにより論文『固定点をめぐる剛体の回転について』を完成させ、1888年にこの研究論文に対してパリの科学アカデミーからボルダン賞が与えられた。この論文の重要性は疑いようもないものだったので、賞金が当初予定されていた3000フランから5000フランに増額されたという。 1889年、この分野における第二のの研究成果によってスウェーデン科学アカデミー賞を受賞した。また同年、チェビシェフらの推挙によりってコワレフスカヤはサンクトペテルブルグ科学アカデミー初の女性メンバーになった。
1891年、コワレフスカヤはストックホルムでインフルエンザと肺炎を併発し、41歳の若さで没した。
[編集] その他
- コワレフスカヤは、フョードル・ドストエフスキーと知り合って彼に淡い恋心を抱き、注意を引くためにドストエフスキーが好きなベートーベンのピアノ・ソナタ「悲愴」の練習までしたが、ドストエフスキーは姉のアンナにしか関心をもたなかったという。
- 1956年と1985年にはソ連でコワレフスカヤの伝記映画が作られている。
- ノーベル賞に数学賞がないのは、コワレフスカヤに振られたノーベルが、彼女と親しいミッタク=レフラー(ノーベル数学賞があったら受賞していたかもしれない)に嫉妬したためではないかという俗説がある。
- 晩年には幼少期の思い出をつづった自伝的小説を執筆しており(ミッタク=レフラーの妹で友人の文学者アン・シャロット・レフラーが執筆協力)、ロシアやスウェーデンをはじめとして世界各国で極めて高い評価を受けている。日本では野上彌生子による翻訳がある(『ソーニャ・コヴァレフスカヤ―自伝と追想』岩波文庫)。他に小説と戯曲が一篇ずつ残されている。
- トマス・ピンチョンが現在執筆中(?)の最新作はコワレフスカヤを題材にしたものだと噂されている。