グレゴリオ暦
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グレゴリオ暦は現在世界各国で使われている暦法で、それ以前に使用されていたユリウス暦に修正を加えた太陽暦の一種である。英語圏では単に新暦、New Style(略称N.S.またはさらに単にNS)と呼ぶ。
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[編集] 制定の経緯
ユリウス暦上の季節と実際の季節のずれが顕著になっていたため、トリエント公会議は教皇に暦法改正の業務を委託。教皇グレゴリウス13世はこれをうけて1579年にシルレト枢機卿を中心とする委員会を発足させ、研究を始めさせた。委員会の中には当時を代表する科学者であった天文学者アロイシウス・リリウスや数学者クリストファー・クラヴィウスらが含まれていた。委員会の作業の末、完成した新しい暦は1582年2月24日に発布され、同年10月4日(木曜)の翌日を10月15日(金曜)とすることが決定した。
[編集] 暦の概要
ユリウス暦では、平均年を365.25日としていた。しかし平均回帰年は約365.2422日であり、この方式では1000年ごとに8日もの補正が必要であった。グレゴリオ暦では1年を365.2425日とし、3000年に1日の誤差となった。これは春分回帰年の365.2424日に非常に近い値である。また、3000年の間には地球の軌道や自転などの変化から、異なる補正が必要となるので、十分な精度があると言える。この365.2425日という値を算出したのは、コペルニクスであるが、主な天文学者が算出した1年の長さ(もちろんその中にはコペルニクスも含む)の平均値がとられ、結果としてコペルニクスの値に近くなったという説もある。
通常の年は365日とし、これに閏年による調整を加えて、平均年を365.2425日とする。端数の0.2425を分数で表すと400分の97であるから、400年間に97日閏日を挿入すれば、平均年は365.2425日となる計算になる。ユリウス暦では4年に一度閏年を設けていたので、400年間に100日閏日が挿入されていた。ここから3日減らして97日とするため、西暦紀元(西暦)の年数が100で割り切れて、かつ400では割り切れない年は閏年としないというルールを加えた。
[編集] グレゴリオ暦の各国における導入の歴史
グレゴリオ暦導入は、ユリウス暦と太陽年との実際のずれについてロジャー・ベーコンが指摘してから実に3世紀もの間かえりみられず、宗教的な問題が顕著になるまで放置された。グレゴリウス13世による改暦後も、ローマ教皇による発令だったためか、ヨーロッパ圏内でもカトリックの国は比較的早く導入した一方で、そうでない国では導入までに100年以上かかっており、相当の隔たりがある。東方正教会は1923年までグレゴリオ暦を採用しなかった(1917年グレゴリオ暦3月に起きた革命を「2月革命」、同11月に起きた革命を「10月革命」と呼称するのは、当時のロシアの暦に従ったためである)。今でも東方正教会は復活祭の算出にユリウス暦を使用する。ただしこれは、ユダヤ教の祭日が決まったあとでキリスト教の祭日を決定するという初期のキリスト教の祭日決定法に従うためで、グレゴリオ暦を導入していないわけではない。(ユダヤ教は1年の長さがユリウス暦とほぼ同じユダヤ暦を基準にして祭日を決定するため、東方正教会では、完全にグレゴリオ暦に移行できないだけである)
- 1582年10月15日 - イタリア、スペイン、ポルトガル、ポーランド
- 1582年12月20日 - フランス 後に中断(フランス共和暦)
- 1583年1月1日 - ベルギー、オランダの一部地域
- 1583年から1587年まで - ドイツ、スイス、ハンガリーのカトリック諸都市
- 1700年3月1日 - ドイツのプロテスタント諸都市、デンマーク
- 1752年9月14日 - イギリス
- 1753年3月1日 - スウェーデン
- 1873年(明治6年)1月1日 - 日本
- 1912年(民国1年)1月1日 - 中国(中華民国が建国とともに採用、同年2月12日の清朝滅亡とともに国内全域で正式な暦となる)
プロテスタント諸国がグレゴリオ暦への改暦に消極的だった理由のひとつに、復活祭の日付の決定がある。自らの祭事の日付をカトリックに決められるのを嫌ったのである。しかし、ユリウス暦の日付がずれており、ずれた日付を元に祭日を決めることには問題があることは、プロテスタントの宗教家もよく知っていたので、グレゴリオ暦は徐々にだが浸透した。ドイツのプロテスタント諸国は、日付の決定のみグレゴリオ暦を使用するが、復活祭の日付の計算には、プロテスタントのドイツ人天文学者ヨハネス・ケプラーのルドルフ星表を使うということで妥協した。この暦は改良暦と呼ばれた。しかしケプラーはグレゴリオ暦のほうがすぐれていることを知っていて、日付計算はすべてグレゴリオ暦で行っていたので、実質的にはこれはグレゴリオ暦で計算しているのとほぼ同じだった。この妥協はうまくいき、周辺プロテスタント諸国もこれに追随した。
[編集] 日本におけるグレゴリオ暦導入
日本では、暦法を明治6年(1873年)1月1日から太陽暦であるグレゴリオ暦(新暦)に改めた(明治5年太政官布告第337号(改暦ノ布告))。明治5年12月2日(新暦の1872年12月31日)まで使用されていた天保暦は旧暦ということになった。このため明治5年の12月は2日しかなく、社会的混乱をきたした。これは明治5年11月9日に布告されたものであるが、その目的は官吏を月給制度にした際、明治6年が旧暦では閏月のため、給料を年13回支払う事態を避けるためといわれている。
だが、後日になって改暦の際に出された布告を見ると、閏年に関する規定に不備(グレゴリオ暦の重要な要素である、西暦の年数が100で割り切れ、400で割り切れない年を閏年としない規定が定められていなかったこと)が発見され、解釈次第では導入された新しい太陽暦が「ユリウス暦と同じ閏年の置き方を採用した日本独自の暦」であると読み取る事も可能であることが判明した(日付が12日ずれているため、ユリウス暦そのものではない)。
そこで明治31年(1898年)5月11日に改めて勅令(明治31年勅令第90号)を布告して、閏年の規定をグレゴリオ暦のものと定めた。こうした事情を考えると、一般的に言われているような「太陽暦導入=グレゴリオ暦導入」とする考え方にはやや疑問も残されるのである。
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