オデッサ (オデッサ州)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
オデッサ(ウクライナ語: Одесаオデーサ、ロシア語: Одессаアヂェーッサ)は、ウクライナ南部、黒海に面した港湾都市である。オデッサ州の州都であり、横浜市と姉妹都市提携を結んでいる。人口は約101万人(2004年)。
重要な貿易港を持ち、またこれまでの歴史上様々な国の支配を受けてきたため、非常に国際色豊かな都市となっている。ソビエト連邦時代に発展を遂げたため、主に現地人の間で使用されている言語はロシア語であるが、ウクライナ語が公式言語とされている。住民はウクライナ人、ロシア人、ユダヤ人、ギリシャ人、ルーマニア人、ブルガリア人、トルコ人と多種多彩である。
目次 |
[編集] 歴史
1792年、エカチェリーナ2世の時代にロシア領となり、1794年から港の建設が始められた。彼女はトラキアに存在した古代ギリシアの植民地オデッサス(現ヴァルナ)にちなみこの街をオデッサと名付けた。街は貿易都市として順調に発展した。1823年から翌年にかけてこの街に滞在したロシアの詩人アレクサンドル・プーシキンは手紙の中で西ヨーロッパ色の強い街の様子について言及している。1821年にはオスマン帝国からのギリシャ独立を目指す秘密組織フィリキ・エテリアがこの街で結成された。1853年に勃発したクリミア戦争においては、ワラキアとモルドバの両地域へ侵攻したロシア軍の拠点でもあったため、1854年よりオスマン帝国を支持して参戦したイギリスとフランスの攻略目標となった。
19世紀を通してユダヤ人が増加し大きなコミュニティ−を形成した。1887年には街の人口の約3分の1がユダヤ人であった。19世紀を通して何度かのポグロムを経験している。ウクライナ出身でロシア革命の中心人物であるレフ・トロツキーは、8歳よりこの街で学んでいる。富裕なユダヤ人の存在のお陰で、オデッサは商業を中心とした文化先進都市として発展していた。
日露戦争のさなか1905年にこの街で戦艦クニャースィ・ポチョームキン・タヴリーチェスキイ号の反乱が起こった。この反乱は後にソ連の映画監督セルゲイ・エイゼンシュテインによって、映画「戦艦ポチョムキン」として作品化されている。1917年にロシア革命が始まるとオデッサはフランス軍、赤軍、白軍による占領が繰り返され、最終的に1920年赤軍が支配権を取り戻した。この期間に街は大きな損害を被り、多くの住民が難民となり国外へ脱出した。第二次世界大戦中はドイツ軍とルーマニア軍により占領されたが、1944年4月にソ連軍が街を奪還した。
1960年代から1970年代にかけて、造船を中心として製油、化学工業、金属精錬などの重工業が発展し街は飛躍的に発展した。1970年代以降にはソ連の政策もあり、多くのユダヤ人がイスラエルやアメリカ合衆国へと移住した。1991年にウクライナが独立すると、オデッサの街はウクライナ領となった。現在では、ウクライナ海軍の基地や漁業拠点がおかれている。
[編集] 文化
この街の出身でもあるイサーク・バーベリによる短編集『オデッサ物語』の舞台である。彼の他にも多くのユダヤ人芸術家がこの街で生まれ育ち、イディッシュ文化の中心地となった。また、現代ギリシャの代表的な映画作家であるテオ・アンゲロプロスの製作した映画「エレニの旅」(2004年)では、革命に伴うオデッサからのギリシャ人難民が主人公となっている。
[編集] ゆかりの人物
- ミハエル・コーガン
- イダ・カミンスカ
- アハド・ハアム
- ユーリ・ニキフォロフ
- ワシリー・カンディンスキー
- レフ・トロツキー
- ゲオルギー・ジューコフ
- ジョージ・ガモフ
- アレクサンドル・プーシキン
- ユーリー・マルトフ
- ショーレム・アレイヘム
- イオン・アントネスク
- ヴラディーミル・ド・パハマン
- グリゴリー・ガリツィン
- フリスト・ボテフ
- ワシル・アプリロフ
- アンドレイ・ヴィシンスキー
- ナタン・ミルシテイン
- ミッシャ・エルマン
- カロル2世 (ルーマニア王)
- ウラジーミル・アーノルド
- イズライル・ゲルファント
- ベンノ・モイセイヴィチ
- シューラ・チェルカスキー
- マリヤ・グリンベルク
- ダヴィッド・オイストラフ
- スヴャトスラフ・リヒテル
[編集] 姉妹都市
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- オデッサ市議会 (英語、ロシア語)
- 2odessa.com
- Odessa
カテゴリ: ウクライナの都市 | ヨーロッパの港町 | ユダヤ教徒コミュニティー | 世界地理関連のスタブ項目