広澤克実
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男子 野球 | ||
金 | 1984 | 野球 |
広澤 克実(ひろさわ かつみ、本名:広沢 克己(読みは同じ)、1962年4月10日 - )は、、昭和時代末期から平成時代にかけて活躍した元プロ野球選手である。登録名は1995年までが本名、1996年~1998年は広沢克、1999年以降は現在の広澤克実。茨城県結城市出身だが、栃木県小山市で育つ。現役時代のポジションは内野手(一塁手・三塁手)・外野手(左翼手・右翼手)。愛称は「トラ」、「広沢はん」)など。2006年10月から阪神の一軍打撃コーチ。
読売ジャイアンツ・阪神タイガースの両球団で4番を経験した唯一の人物である(2006年シーズン終了現在)。
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[編集] 来歴・人物
栃木県立小山高等学校から明治大学に進学。島岡吉郎監督からスパルタ教育を受け、野球の大切さを学んだ。大学時代、ロサンゼルスオリンピックで野球日本代表チームの一員として出場。決勝戦で本塁打を打ち、金メダル獲得に貢献。1984年、ドラフト1位指名で土橋正幸監督率いるヤクルトに入団。その際、大杉勝男から永久欠番である背番号8を禅譲される。
池山隆寛と共に「イケトラコンビ」(HI砲ともいう、Hは広澤でIは池山の意味)としてヤクルトの主軸を成し、2度のリーグ優勝(うち1度は日本一)に貢献した。1994年オフにFA宣言し巨人に移籍。本職は三塁だが、巨人ではジャック・ハウエルや元木大介と重なったため一塁、清原和博(現:オリックス・バファローズ)入団後は外野を守ることが多くなった。1997年9月26日、対中日戦でサイクルヒットを達成。
1999年4月29日の古巣・ヤクルト戦(大阪ドーム)で後輩の川崎憲次郎投手から中堅前ヒットを放った後、二塁への盗塁を試みるが右肩を脱臼。これがきっかけでシーズンを棒に振り、2000年阪神に移籍。阪神移籍後は代打の切り札として活躍。一部では、「代打の神様」と呼ばれた八木裕と並んで「代打の仏様」とも呼ばれていた。2003年の日本シリーズ第7戦最終打席でダイエーの和田毅投手から本塁打を放つ。なお、これは日本シリーズ史上、歴代最年長本塁打記録(41歳6ヶ月)である。その年限りで引退。ヤクルト時代の1992年・1993年、巨人時代の1996年、そして阪神時代の2003年と、所属した3球団全てで優勝を経験した。
引退後はNHK、スポーツニッポンの野球解説者を経て、2006年10月17日に阪神の1軍打撃コーチに就任。3年ぶりの準古巣復帰となった。また関西では朝日放送『虎バン』(毎月1回程度)と関西テレビ放送『ぶったま!』(レギュラー)にもコメンテーターとして出演中。ユニークな人柄からタレントとしての活躍も期待される。阪神時代の背番号は31だった。その後2004年に濱中おさむ選手に自ら背番号31を与えた。
現役19年の間、退場処分を受けたことは一度もない。
[編集] エピソード
- 大学時代、練習の辛さや人間関係から、何度もやめようと思ったことがあるという。それを救ったのが先輩の平田勝男であり、平田は悩んでいる広沢を部屋に呼び、そばなどをごちそうし、「食べたら街にでも遊びに行って来い、夜まで帰ってこなくていいぞ」と気を遣ってくれたそうで、広沢は涙が止まらなかったという。
- 「トラ」の愛称は、本人が渥美清に似ていることから(フジテレビの『プロ野球ニュース』などでも車寅次郎の物真似を披露している)という説と、星野仙一が浪曲師広沢虎造にちなんだ、という説がある。但し、本人はこの愛称をあまり気に入っておらず、一時期「ブル」と呼ばせていた時期があった。ヤクルト時代の「イケトラコンビ」も「イケブルコンビ」と呼ばせようとしていたが、あまり定着しなかったようだ。
- NHK解説者就任は、大学の先輩である星野仙一のコネであるが、本人は「僕はヤクルトの関連会社であるフジテレビで解説したかった。NHKは下ネタが言えないから嫌だ。」と発言している。周囲からも「NHK向きではない。」との声が多い。
- 2000年の入団後、初のお立ち台で「早く六甲おぼし…、いや、六甲おろしを覚えますんで、よろしくお願いします。」とコメントした。2001年、阪神甲子園球場で行われた巨人戦で代打サヨナラタイムリーヒットを放った後、お立ち台で「次にサヨナラヒットを打ったら『六甲おろし』歌います。」と公約したが、この発言が「次にお立ち台に上がったらの場合。」とファン等の間で拡張解釈された。
- そのため、同年8月14日の大阪ドームの広島戦でお立ち台に上がった時は、期待するファンに対し、「言っておきますけれど、大阪ドームじゃやりませんからね。」とファンをがっかりさせ、8月29日の巨人戦(この時井川慶投手が完封。)6回裏に高橋尚成投手から唯一の得点となる決勝ソロ本塁打を放った後のお立ち台で『六甲おろし』を歌うという前代未聞の事態に発展したことがある。この行動により、野村克也監督とのコネで入団し、起用されているというイメージが消え、ファンから痛烈に浴びていた罵倒などの逆風が一転し、引退時にはチームでも有数の「ファンから愛される選手」となった。
- 引退前の2003年にお立ち台に上がった際には、これまたファンの大声援が送られたものの、中継していた放送局がNHKだったこともあってか(本人は「NHKだから。」と語った)「みんな面白いことやってくれって期待してるんですよ。今日はやりませんからね。日本一になったときにやりましょうや!」とコメントした。
- またこの年の2003年のダイエーとの日本シリーズで6打席連続三振を記録。現役最終打席、日本シリーズ第7戦の9回表矢野の代打で出て和田毅投手から左翼席へ本塁打を打ち日本シリーズ最年長(当時41歳)の本塁打を記録(前述)。
- この打席が現役最後になる事を自覚していた広澤はすでに泣いていた。そのため、「それまではボールが見えていたから打てなかったが、涙でボールがよく見えなかったのでホームランになった」などとネタにされている。
- 大学下級生時代の練習試合中、島岡監督好物の焼き芋番をしていたところ、島岡監督に「打席に立て!」といわれてそこで活躍、一躍レギュラー入りの足がかりを得たと言われる。
- 入団会見で報道陣に「有名人になって小泉今日子に会いたい。」と言ったエピソードは有名で、ヤクルトファンの語り草となっている。
- ヤクルト在籍時、『クイズ!早くイッてよ』というクイズ番組へ、一般参加者枠で応募して登場したことがある。
- 巨人在籍時、長嶋茂雄監督の勝利監督インタビューで「広沢の内野安打が効いた。」と発言するところを「広岡の内野安打が」と言い間違えられた。珍プレー好プレーでもおなじみ。
- 1985年はヤクルトの選手で、2003年は阪神の選手で阪神胴上げの両試合に出場(選手としては唯一の存在である)し、85年は広澤は1年目、03年は現役最後の年でと不思議な共通点がある。
- 試合前に雨が降りグランドを直しているグランドキーパーの人に「これじゃダメだっぺ。いくらなんだって。」と方言丸出しで伺っていた。(珍プレー好プレーより)
- 阪神時代、星野監督に金本や矢野らベテラン同様、ミスをすると檄が飛んだ。しかし、本人は、「ベテランが怒られてるんだから、若い連中も怒られて仕方がないというムードを作っていた。」と、星野の監督としての手腕を高く賛辞している。
- ヤクルトで野村監督、巨人では長嶋監督、阪神では星野監督と3人の個性派監督に仕えた。そのため、彼のコーチ・監督としての待望論もある。
[編集] 通算成績
- 1893試合 打率.279(6249打数 1736安打) 306本塁打 985打点 1529三振
[編集] タイトル・表彰・サイクルヒット
- 打点王(1991年、1993年)
- 最多勝利打点(1990年、1992年)
- ベストナイン(1988年、1990年、1991年、1993年)
- サイクルヒット(巨人時代の1997年9月26日の中日戦で達成。本塁打・単打・三塁打・二塁打の順。しかも、その年の三塁打は1本しか打っていない。)
[編集] 背番号
[編集] 略歴
- 身長・体重:185cm 99kg
- 投打:右投右打
- 出身地:茨城県結城市
- 血液型:B型
- 球歴・入団経緯:小山高 - 明大 - ヤクルト(1985年~1994年) - 巨人(1995年~1999年) - 阪神(2000年~2003年、2007年~)
- FA行使:1994年(1回目)
- プロ入り年度・ドラフト順位:1984年(1位)
- 英語表記:HIROSAWA
- 守備位置:一塁、外野、三塁
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- 読売ジャイアンツ4番打者
- 第61代
-
- 先代:
- 落合博満
- 次代:
- 松井秀喜
- 阪神タイガース4番打者
- 第78代
-
- 先代:
- マーク・ジョンソン
- 次代:
- トニー・タラスコ
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