西村龍次
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西村 龍次(にしむら たつじ、1968年7月18日 - )は、平成期(1990年代-2000年代前半)のプロ野球選手(投手)。広島県呉市生まれ。
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[編集] 来歴・人物
広陵高等学校で金本知憲と同期だったが、厳しい縦関係に耐え切れず1年の一学期で香川県の藤井学園寒川高等学校に転校、ヤマハを経て1990年ヤクルトスワローズにドラフト1位で入団。1992年、1993年のリーグV2(1993年は日本一)に貢献。入団以来4年連続で2桁勝利をマークする。
1994年 5月11日の対巨人戦で7回表、巨人のダン・グラッデンへの内角球がきっかけで乱闘騒ぎに。この試合では序盤に西村が巨人の村田真一の頭部に死球を与え村田を負傷退場に追いやり、続いてその報復で今度は巨人の木田優夫が西村の左足に死球を与え、両チームに険悪な雰囲気が漂っていた。この乱闘でバッテリーを組んでいた中西親志はグラッデンと本塁上で殴りあい負傷。西村は危険投球、中西とグラッデンは暴力行為で退場処分を受ける。この年6勝に終わり、入団以来続いた2桁勝利が途切れる。この試合がきっかけで危険球の規定が改められた。
その後1995年に吉井理人とのトレードで近鉄バファローズに移籍するが結果を残せず自由契約になり、1998年に福岡ダイエーホークスにテスト入団。10勝をあげカムバック賞受賞。ダイエーでも1999年、2000年(1999年は日本一)と2年連続でチームを優勝に導き2001年に引退。通算成績75勝66敗2S。
[編集] エピソード
新人時代は度胸満点、怖いもの知らずのピッチングスタイルから「知らずの龍(タツ)」とチームメートから呼ばれていた。開幕戦で西村が投げれば優勝する、と言われていたことから、たびたび開幕投手を任されていた。そのため、両リーグで開幕投手を経験する。バッティングは非常に苦手で、それが原因で(指名打者制の)パ・リーグにトレードされたと言われる。また、ヤクルト時代の監督野村克也には「一番悩ませてくれましたよ」とも言われていた。
[編集] 現在
現在は九州朝日放送(KBC)の野球解説者。また、セ・パ両リーグで4度のリーグ優勝と両リーグで2回の日本一を経験したことや、主催試合の放映権を持っているヤクルトOBであることが買われてKBCのキー局であるテレビ朝日が制作する野球中継「スーパーベースボール」に出向して解説をすることがある。(テレビ朝日では巨人戦を中心に球種解説として活躍)
KBCでの野球解説については、よくKBCアナウンサー小林徹夫とセットにされて、「PAO~N」のハニワの部屋にとりあげられる。現在は福岡市博多区でレストランバー「COUNT」も経営している。
[編集] 通算成績
- 試合203
- 勝利75
- 敗戦66
- セーブ2
- 投球回数1226 2/3
- 奪三振716
- 防御率3.73