ジョージ・アリアス
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ジョージ・アリアス(George "Alberto" Arias、男性、1972年3月12日 - )はプロ野球選手。アメリカアリゾナ州生まれ。ヒスパニック系で英語とスペイン語のバイリンガル。身長180cm、体重86kg、右投げ右打ち。顔がシルベスター・スタローンとランディ・マッスルに似ている。
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[編集] 来歴・人物
長打力のある打撃と強肩が特徴の内野手で、主にオリックス時代は三塁、阪神移籍後は一塁を守る。強打のパワーヒッターの印象が強いが実は守備の名手でもある。オリックス入団時三塁手として守備のよさに定評があり、二塁手としても試合に出場したことがある。阪神では一塁手として藤本敦士らの送球ミスを度々好捕する場面が目立った。
好不調の波が激しすぎる事でも有名。不調な時は長期間ホームランが出ない(しかし、東京ドームでの試合に限っては好不調に関係なくよく打っていた)が、好調な時は1試合3ホームランも難なく打つ。また、チャンスにはかなり弱い。ここぞという場面に打てなく、逆に試合展開が決まっているときには異常にホームランを打ち、ダメ押しホームラン王とまで呼ばれた。この極端な好不調の波さえなければ、いかなる球団でも活躍できることは容易に想像がつくと言えよう。
「ジョージ」の愛称で親しまれており、オリックスに所属した2000年は、監督が愛称を登録名にすることが好きで有名な仰木彬であったこともあり、開幕直前に登録名を『ジョージ』とした。しかし、登録名を変えてから絶不調が続いたため再び『アリアス』に戻した。
不振を救ったのが故高畠康真打撃コーチだった。先任の新井コーチが投げ出したジョージを引き受け、歴代の首位打者(落合・リー・高沢・西村・平井)を育て上げ、小久保らを生徒に持つ氏のユニークな打撃理論をマンツーマンで学び、勝負強さが格段に向上し、要所要所で【センター中心へ打ち返す】バッティングを身に付けて、イチローなきオリックス内部でも圧倒的な(今で言う)OPSの%が高い打者に成長。
「チーム内最多打点」などを2年連続で残しながら、オリックスは更改予備交渉でジョージ側の「提示金額」をまったくクリアできず、困った彼は高畠に相談。結局、「高畠を中心にオリックス、阪神が協議(?)する」という舞台裏の末、阪神が円満裡に獲得したのが真相。ところが、オリックスは「主力選手の流出に手を貸した」と、高畠を疎んじて閑職に追いやり、結果それが氏の《プロはあまりにフロントが腐っている、原点に還り高校教師資格を取って(筑紫台高校)無垢な球児と甲子園を目指したい》との球界引退宣言へと結びつく。
翌年から阪神に移籍したジョージは打点、本塁打でチームトップクラスの成績を残し、2003年のリーグ優勝に大きく貢献。だが”元来の師”を失って好不調の波が激しいことや年俸3億円がネックである事から首脳陣の高い評価を得ることはできず、2004年シーズンオフに解雇された。同2004年に念願の高校の教壇に立ちながら、急性すい臓がんで急死した高畠氏の下に、悲報を聴いた遠く外地のアリアスから《阪神タイガースの》ユニフォームが届けられる・・・・【甲子園への遺言】(講談社刊)
2005年ワシントン・ナショナルズと契約するも4月に解雇。その後はメキシカン・リーグのティファナ・ポトロスでプレーしていたが、日本球界復帰を目指していたアリアスと右打者の補強に乗り出していた巨人の両者の思惑が一致し、2006年6月28日、読売ジャイアンツへ入団。背番号は「91」(オリックス時代の5と阪神時代の14を足して19。それを逆にして91)。同年7月5日、対中日 - 東京ドーム 6番左翼手として初出場したが、その後、結果を残すことは出来なかったため、2軍に降格。わずか17試合出場にとどまり成績も低迷。シーズン途中の9月2日に来季契約を結ばない方針が巨人フロントから発表され、この年限りでの退団が決定した。
帰国の際、「チームを救済出来ずに申し訳ない。巨人の成功を祈っている」としたうえで、「阪神では信念や希望を持ち、何より野球は楽しむものだと感じた。巨人にはいいプレイヤーがいるが、重圧に負け野球を楽しんでいない。」と評した。
[編集] エピソード
- 長男は日本ではジョージJr.と呼ばれる事が多かったが、正しくはジョージー(Georgie)君で父とは別名である。
- イチローがオリックス在籍時の2000年春に、メジャーリーグ・マリナーズのスプリングキャンプ及びオープン戦(プレシーズンゲーム)に参加するため渡米し、パドレス戦に出場したことがあった。そのイチローのサードライナーをキャッチしたのがアリアスである。アリアスはアメリカで初めてイチローの打球をキャッチした選手と言うことになる。一年間チームメイトとなったが、イチローがメジャーに挑戦することになった際、活躍について疑問視されている中で「彼は素晴らしいプレイヤー。間違いなくメジャーでも3割打つだろう。ひょっとして新人王を獲っちゃったらどうしようかと考えているよ」と雑誌インタビューで答えている(実際その通りになっている)。
- タフィ・ローズとは同じアメリカ出身で関西のパ・リーグチームの所属と言う共通項から、非常に仲が良かった。ローズがアリアスと同じ神戸のマンションに引っ越した際には、たびたび料理や阪神甲子園球場での試合に招待していた。
- 2003年、阪神のセリーグ優勝時にオートバイ用品専門店南海部品より特別仕様のバイクを贈呈される。
- 打席に入ってる最中に唾を吐く場面が度々見られるが、あれは噛みタバコを噛んでいるためである。
- 2002年阪神在籍時のシーズン中、対巨人戦で入来祐作投手の投球が背後に大きく外れ、乱闘騒ぎとなった。
- 彼はなぜか東京ドームでの成績がよく、本人も「東京ドームは大好きだ」と言っている。オリックス時代は日本ハムに、阪神時代は巨人に相性がよく、どんなに不調であっても、東京ドームで試合があれば復調するほどでもあった。東京ドームでホームランを打ったあとのインタビューに日本語で「東京ドーム大好きです」と答えた事がある。巨人に入団したのも、相性の良い東京ドームでの活躍が期待された為である。
[編集] 経歴
ぺブロ高校卒・ピマ・コミュニティ短期大学・アリゾナ大学を経て
- 1993年、アナハイム・エンゼルスにドラフト7位で入団。
- 1997年、サンディエゴ・パドレスへ移籍。
- メジャー通算:率.238 本14 点55
- 2000年、オリックスブルーウェーブへ移籍。
- 2000年 率.250 本26 点61
- 2001年 率.262 本38 点97
- 2002年、阪神タイガースへ移籍。
- 2005年、ワシントン・ナショナルズとマイナー契約するも4月に解雇。その後メキシカン・リーグのティファナ・ポトロスでプレーし、2006年途中に読売ジャイアンツに移籍。
- 2006年 率.272 本19 点71 (メキシカンリーグ、80試合)
- 2006年 率.167 本2 点5 (読売ジャイアンツ、17試合)
- 日本通算:率.259 本161 点436
[編集] 日本球界での背番号
- 5(2000年~2001年)
- 14(2002年~2004年)
- 91(2006年途中~)
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- 阪神タイガース4番打者
- 第83代
-
- 先代:
- 濱中治
- 次代:
- デリック・ホワイト