京阪3000系電車
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京阪電気鉄道3000系電車(さんぜんけいでんしゃ)は、1971年から1973年にかけて製造された、京阪電鉄の特急形車両。現在8両編成1本が運用中。オールクロスシート、2扉車。京阪特急専用車としては5代目(1900系の元1810系編入車を除けば4代目)。編成中にテレビを設置した車両を連結することから、テレビカーの愛称を持つ。車内には、世界初となる自動座席転換装置なども装備している。
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[編集] 車歴
[編集] デビュー
1971年8月15日のダイヤ改正で特急の運転間隔をそれまでの20分から15分に変更して増発し、既存の1900系特急車を7両編成化するため、不足する特急車の補充として第1次車6両編成2本(12両)が製造された。使用開始は同年7月1日。編成は3両ずつに分割して1900系と混結可能であり、このため運転台側連結器は京阪標準の日本鋼管製NCB-II密着自動連結器が採用された。各先頭車両にテレビカーとして初めてカラーテレビを搭載した。また、3000系の特徴である収納式補助いすは未装備であった。窓際の壁には国鉄583系電車に似た肘掛けが設置され、扉付近には手摺り付きの仕切りのみが取りつけられていた。
[編集] 最盛期
3000系と1900系との接客設備の差は冷房機器の有無などからも明らかであり、特に夏は3000系の運用を待って先行の1900系特急を見送る乗客が多くなったことから、当初の補充のみの計画から、特急を全面的に3000系に置き換え1900系を一般車に格下げする方針に転換した。そこで1972年には第2次車7両編成2本(14両)が製造された。この2次車では3600形中間付随車が新たに連結されるとともに、3000系のみのの特急運用を前提として、ブレーキを電磁自動ブレーキから電気指令式ブレーキへと変更し、さらに早朝夜間の編成解結の作業簡略化を目的として、連結器を電気連結器付き密着連結器へ変更した。これにあわせて1次車も同等仕様への改造を実施した。また、2次車では1次車にあった窓側の肘掛けは廃止した。これは一説には灰皿代わりにする客が後を絶たなかったためといわれている。
1973年には第3次車として7両編成2本(14両)と6両編成3本(18両)の32両が製造され、1900系の置き換えが完了し、特急運用の統一と全冷房化が実現した。この3次車では、混雑時および地下線内での使用停止を目的として車掌室から遠隔ロック可能な収納式補助いすが装備され、1/2次車も改造されている。なお、補助いす設置に伴い余剰となった1/2次車のデッキ仕切りは、一部が寝屋川工場のガードレールに転用された。
当初より架線電圧の、1500Vへの昇圧を前提として設計されていたため、1983年の昇圧に際しても大きな改造はなく、15年以上にわたって京阪の看板車両として運用された。
[編集] 大量廃車・譲渡
鴨東線開業を前提とした三条-七条間の地下化に伴う1987年のダイヤ改正で3連運用を廃止した事から、連結器を電気連結器付き密着連結器から密着自動連結器に交換した。同時に先頭部スカートの切り欠き形状を変更し、正面の貫通幌も撤去して前面の印象は変化した。
1989年の鴨東線開業に伴い、運用増で不足する特急車の補充として、18年ぶりの新型車として8000系が製造された。新形特急車である8000系の人気は予想を上回るもので、特に特急始発駅である出町柳駅や淀屋橋駅では、3000系登場時と同様、先発の3000系特急を見送って8000系特急を待つ乗客や、3000系に1両だけ組み込まれた8000系中間車に乗客が集中するといった現象が見られた。この反応に手応えを感じた京阪首脳陣は、JR西日本が京阪特急のライバルである新快速用として新造した221系電車への対抗策としての意味合いも込めて、特急車を全面的に8000系に置き換え、3000系はまだ使える主電動機等の機器を8000系に転用の上、廃車する方針を立てた。皮肉にも、先代特急車1900系を特急運用から退かせたのと同じ状況である。この方針に沿って1990年から3000系の廃車が始まった。主電動機など一部の機器は新造される8000系に転用されてコスト引き下げに貢献し、また先頭車両は電動車であったことから、廃車分の半分はすべて他の地方鉄道に譲渡された。
一方、残存編成は7両編成を組み直し、元の6両編成の7両編成化分から捻出された中間付随車8550形は8000系増備編成に組み込まれた。特急車の全編成7両編成化時に、編成としてのアンバランスを承知で、3000系の6連編成にあえて8000系を組み込んだのは、近い将来8000系の増備を実施し、8000系のみの編成に組み込むことを計画していたためである。また、編成の中間に入った3000形と3500形の運転台はダイヤ改正後使用されなくなったが、この内大阪側編成の3500形については運転用機器撤去の上で助士席側にカード専用公衆電話機が設置され、外部にはアンテナが追設された。
その後も8000系の増備と共に廃車が続き、編成中間に組み込まれた3500形公衆電話設置車については、廃車に際して編成をまたいだ入れ替えが実施されたが、最終的には1編成7両と2両の予備車および譲渡車を残し、すべて廃車となった。
1900系のように一般車格下げ改造が行われることなく大半の車両が廃車に至った理由は以下の通りと考えられる。
- 1985年より開始していた1900系の冷房改造および車体更新にかかるコストが当初の予測を上回った経験から、格下げ改造後の維持コストが過大になる公算が大であった。
- 新設計の一般車である7000系の投入により、8000系の本格投入が始まる前に必要な両数が足りていた。
- 8000系は計画時より本系列の主電動機を流用する前提で設計されており、8000系第1編成の投入に際しても本系列の検査体制の見直しによって捻出した余剰予備品を転用して充足していた。このため、3000系を継続使用する場合、電装品の設計変更または15年前に製造完了した電動機の追加生産を実施する必要があり、製造コストおよび保守の両面で問題があった。
手入れと物持ちが良いことでは定評のある京阪では、これまで車両を新造後30-40年あるいはそれ以上にわたって使われる例がほとんどだが、本系列に限っては結果としてわずか20数年で解体される車両が続出することとなった。
[編集] 固定編成化
1995年に車体更新工事を行った際に、編成内の3600形中間付随車1両を自社・寝屋川工場で2階建車両(ダブルデッカー)に改造した。既存車両の改造によって2階建車両を製作するのは極めて珍しいケースである。自社工場では過去20年に700系(2代)を1000系(3代)に、2000系を2600系に改造したり、京津線・石山坂本線の350形を600形(3代)に、500形(3代)を700形(3代)に改造した程度の実績しかなく、前例のない難しい工事であった。車両メーカーの助言を仰いだとはいえ、その施工経験と使用実績は、量産車というべき8000系増結用ダブルデッカー車の設計に当たって貴重なデータを提供した。
その後の全特急車の8両編成化に際しては、予備車となっていた先頭車3500形2両を車体更新と同時に1両の中間車として組み込んだ。この3500形の中間車化改造に当たっては、1両の運転台部分をカットした後で、もう1両の連結面側構体をカットしたものを溶接したため、扉間の窓数は9枚、元運転席のあった側の窓は4枚となっている。また、この車両は台車として種車のKS-132Aをそのまま履き続けているのも大きな特徴である。8両編成化に際して、余剰車3500形を8000系に組み込み試験を行った。
なお、車体更新に際しては、制御装置を8000系と同一の機器に更新した事から、運転台のマスコンを8000系と同じT字型ワンハンドル式に変更した。また、もとは鉄製で固定してあった前面の鳩マークの部分に、種別・行先表示幕を装備した。このため、特急運用の際には表示幕で鳩マークを掲示するようになり、目隠し板は不要になった。また「3000系のイメージを形成する部品」としてダミーのステンレス製幌枠が取り付けられ、全盛期の精悍な姿が再現された。車内についても化粧板だけでなく窓枠等の金具までもが新品に交換され、新車並の状態に仕上がる徹底的な工事が行われた。
京阪電車大津線公式サイト内「o2trains」コラム第11回・3000系ダブルデッカー誕生秘話
[編集] 車両
[編集] 車種構成
初期は、淀屋橋方より制御電動車である3000形(3001~3018)、中間電動車の3100形(3101~3118)、そして制御車の3500形(3501~3518)の3車種による3連を基本とし、4連を組む編成については3100形と3500形の間に付随車である3600形(3606・3608・3610・3612。下2桁が同番の編成に組込)が挿入された。6両または7両編成を組成し58両が製造されたが、平成に入り8000系の新造に伴い徐々に廃車が進んだ。しかし、検査体制の見直しなどの影響で特急運用に余裕を持たせる必要が生じた結果、7両編成1本および予備車2両が存置され、その後予備車を改造した2階建て車1両を含む8両1編成に再編成された。
1989年の鴨東線開業に伴う全特急7連化に際しては、3600形の追加新造ではなく、新特急車である8000系の付随車である8500形8550番台車5両(8552・8554・8564・8566・8568。車番は組み込み先編成番号の下2桁を加算した番号となっている)が新製投入されて組み込まれた。
[編集] 車体
1900系新造車グループに準じた2扉19m級車である。
窓配置は先頭車がd2D9D3、中間車が3D10D3(dは乗務員室扉、Dは客用扉を示す)となっており、先頭車と中間車の扉間窓数が異なっている。このため、一部号車の停車時の扉位置が7連編成と6連編成で微妙に異なっていた。また、各車の車端部にある窓各1枚は幅が他より狭く座席も固定式となっており、車端部の連結面には窓は設けられておらず、車内のこの部分には名画の複製が掲げられていた。
側窓は冷房搭載を受けて上段上昇、下段固定式の2段式とされ、下段固定により1900系にあった保護棒は省略され、すっきりした印象となった。なお、車体中央部に位置する種別表示幕直下の上昇窓については表示幕と干渉するため、固定窓とされている。
車体断面はクロスシートの座席幅及び通路幅を確保すべく2000系等と同様に裾絞りが入っているが、カーブはやや緩くなっている。
前面デザインは1900系に見られたバンパーを廃し、左右の窓を曲面ガラスとしている。また、貫通幌は扉および幌枠取り付け部を一段奥に引き込んだ半埋め込み式としてあり、幌自体も従来の吊り幌から2200系以降の新造車に採用された成田式リコ型と呼ばれる幌吊りを内蔵した新型に変更されている。
京阪特急車のシンボルとも言える前面の鳩マークは電照式のものが固定装備され、回送時や急行などの運用に充当される際には車体と同色に塗り分けられた目隠し板をはめて運行された。
前照灯は2灯式であるが2400系と同様のシールドビームで、照度のアップと灯具の小型化が実現している。また、標識灯は5000系(1971年製以降)と共通の角形2灯式のユニットが前面下部の左右に振り分けて取り付けられている。
座席はシートピッチ900mmの転換クロスシート(上述の通り車端部のみ固定式)とされ、1900系と異なりオールクロスシート化が実現した。
座席には縦縞入りエンジ色モケットが張られた東京リクライニング社製転換クロスシートが採用され、両端駅での座席方向転換作業を簡略化すべく、新開発の空気圧駆動による自動転換装置を内蔵した。
冷房装置は冷凍能力8500kcal/hの三菱電機CU-13形集約分散式ユニットクーラーが各車に4基ずつ搭載されており、天井部の風洞を介して冷風が供給されるが、停車駅数の少ない特急専用車であったため、ラインフローファン等の補助送風ファンの搭載は省略された。
[編集] 台車
台車は、京阪においては2400系で初めて導入された車体直結式(ダイレクトマウント)の空気バネ式台車が全車に採用されている。
電動車が住友金属工業製FS-381、制御車の3500形が汽車製造会社→川崎重工業製KS-132/132Aを装着しており、中間T車の3600形は将来の電動車化を考慮して電動車のFS-381から主電動機支持架などを省略したFS-381Bが装着された。
FS-381は、汽車会社が開発したエコノミカルトラックと呼ばれる廉価な1自由度系エアサス台車に対抗すべく住友金属が開発したFS-337系1自由度エアサス台車(京阪では2000系以降の量産通勤車に採用)の系譜に連なる側梁緩衝ゴム式台車の一種であり、軸箱支持についてはその荷重を直上のコイルバネに負担させる構造(初期のFS-337系ではここもゴムパッドが使用されていた)であるが、通常のペデスタル式軸箱支持構造と異なり左右がゴムパッドにより固定されていて、金属部品による摺動面を持たないという特徴がある。
これに対しKS-132/132Aは汽車会社がスイス・シンドラー社からライセンスを得て開発したシンドラー式円筒案内台車の最終世代で、これは1900系に採用されたKS-70のダイレクトマウント版に相当する。
本系列の台車は、いずれもダイレクトマウント化の実施によって1900系に比べて乗り心地が改善されるものと期待された。ところが、FS-381については曲線主体の京阪の軌道条件に良く適合し、走行特性は良好であったものの、構造上軸バネを柔らかく設定できないためにその乗り心地は今一つ不評で、「乗り心地だけは1900系[1]の方が良かった」との声も上がる状況であった。そのためか、本系列の淘汰時にKS-132系は10両分が枕バネ付近を大改造の上でKW-79として2600系に転用されたが、本系列で多数を占めていたFS-381系は全数廃却されている。
[編集] 電装品
例外的に三菱電機製主電動機や駆動装置が採用された1800~1900系と異なり、京阪電車の伝統に従い、電装品は東洋電機製造製で統一されている。
主電動機の定格出力が小さく、限りなく全電動車方式に近い編成とならざるを得なかった1800系~1900系と比較して、大出力モーターの採用でMT比が2:1あるいは4:3と経済的な編成が組めるようになり、加えて京津線50形以来の京阪のお家芸である直流複巻電動機を使用した、定速度制御機構が導入されたのが大きな特徴である。
また、将来の架線電圧の1500Vへの昇圧の方針が定められてから登場したため、機器構成もそれに備えたものとなっている点も特徴の1つである。
主電動機としてはTDK-8160-Aが搭載され、600V時代には端子電圧300V時定格出力140kWを発揮した。これは昇圧後の定格出力(端子電圧375V時定格出力175kW)が示す通り、通常型電車用直流複巻式整流子電動機としては極限に近い大きな磁気容量を備える強力なモーター[2]で、1900系が採用していた75kW級のTDK-809A/MB-3005Dと比較しておよそ倍の出力[3]を実現している。
これは京阪神急行電鉄(現・阪急電鉄)京都線や、国鉄東海道本線といった競合線区に対抗するに充分な走行性能を得るために採用されたものであり、後継形式である8000系にも同じものが継続採用されている。
もっとも、600V時代にはこれでも複々線区間で高速運転する際にはやや出力不足気味であり、既に1900系末期の段階で7連化が始まっていたにもかかわらず3600形の新造がラッシュ時に必要最小限の両数に抑えられ、あるいは電装準備工事が行われていた一因はここにあった。
なお、駆動装置は中空軸たわみ板継手式カルダン式で、ギア比は84:16である。
制御器はES587Aで、分巻界磁位相制御方式による定速度制御機能を備えている。この機能はマスコン(前後操作式)側の指令により、65km/h以上の速度域において5km/h刻みで一定速度での走行を可能とするものであり、速度が低下した場合には力行ノッチが自動進段し、3km/hまでの範囲で速度が超過した場合には回生制動が、さらにこれを越えて超過した場合には電制が自動的に動作するという、ブレーキシステムと連動した機構となっていた。
ただし、本系列の制御器に備えられた回生制動機能はこの定速度制御機能でのみ利用可能、つまり主制御器内で完結した機構であって空制系とは直接連動していなかった。
本系列は昇圧準備車として設計されたため、制御器は1C4M制御で、それでいて回路的に独立した電動車2両が隣接する様に組成されており、昇圧工事の際には単車昇圧のみならず親子方式の昇圧も選択可能なように考慮されていた。
実際には主電動機を2個2群で直並列つなぎ(2P2S接続)してあったものを、各モーターが回生制動にメリットのある低電圧駆動となる4個永久直列(4S接続)として単車昇圧されており、電動車を隣接させるメリットは特になかったことになる。
この制御器は1995年の残存編成に対する更新工事に際して交換が実施され、8000系と共通の1C8M制御器であるACRF-H8175-792Aに変更されて集約化が図られており、ここに初めて電動車を隣接させる必然性が生じている。
このACRF-H8175-792Aは6000系に搭載されたACRF-H8155-785Aの発展型であり、旧制御器同様に分巻界磁位相制御方式による定速度制御機能を備えているが、「+」(力行)・「-」(制動)・「N」(定速度維持)の3ポジション指示によって45km/h以上の速度域において1km/h刻みで定速度指令可能、とその機能が大幅に進歩しており、これにより運転の容易化が図られている。
パンタグラフは冷房装置搭載スペースを確保する為に下枠交差式のPT-48-Eが採用され、3000形及び3100形の京都寄りに各1基搭載されている。
[編集] ブレーキ
1971年竣工の第1次車2編成は1900系との混結を考慮して同系と共通のAMAR-D自動空気ブレーキが採用されていたが、第2次車以降全電気指令式のHRD-1D(制御・付随車はHRD-1)に変更され、第1次車についても第3次車登場時にHRD-1Dへ改造して仕様統一が図られている。
[編集] 連結器
上述の通り、第1次車の段階では1900系との混結の可能性があった(ただし、現在に至るまで1回も実施されていない)ため、1700系以来の日本鋼管製NCB-II小型密着自動連結器が先頭車運転台側に搭載された[4]が、特急運用への3000系定数充足に際し、早朝深夜の3連運用時の増解結作業の簡略化を目的として第3次車では電気連結器の付いた回り子式(柴田式)密着連結器が採用され、これに合わせて第1・2次車も連結器の交換が実施された。
増解結の可能性のない中間車と先頭車の連結面側については一貫して半固定式の棒連結器が採用されている。
その後、早朝深夜の3連分割運用が1987年に廃止されたことから、8000系登場とこれに伴う特急の7連統一に際して再度運転台側連結器が小型密着自動連結器に再度変更され、これが2006年現在までそのまま使用され続けている。
なお、本系列には2200系以降の新造通勤車と同様にATS車上子の保護の目的で前面床下にスカートが装着されているが、これは上記連結器変更で物理的な干渉が生じたため、その都度形状変更が施されている。
[編集] テレビ
制御車である3500形の運転台(京都)寄り貫通路上部に20インチカラー受像器が内蔵された。
これは京阪特急初のカラーテレビであるが、高電圧の架線直下を走行するため磁界の干渉が大きく、通常品では色ずれが発生しやすいので、特に磁気シールドを強化した特注品を沿線(門真市)の松下電器産業(National/Panasonic)が製作して納入している。
なお、先代特急車である1900系ではより大型の23インチ受像器が、1800系でも21インチ受像器が搭載されていたが、これらは白黒モデルであって色ずれ問題とは無縁で、磁気シールドの問題がカラー受像器ほどシビアでなかったがゆえの大サイズであった。
スピーカーは各座席の側窓下に用意されており、ボリュームによる音量調節も可能であった。
受信アンテナは、1900系までの歴代テレビカーの実績を受けて、屋根上に2基の5素子八木アンテナを90度の角度を付けて違う向きに搭載し、信号強度が大きい方から受信するように地上子による指令検出で自動切り替えする機構を搭載しており、本形式の登場に合わせて地上子の整備が実施されている。これは、大阪から京都へ向かう途中で、生駒山にある送信所との位置関係が変わってしまうためにとられた措置である。この送信所との位置関係の変化への対応策は、1800系では、屋上のアンテナを車掌が回転させて切り替え、1900系は単純な電波強度比較機構による自動切り替え、と段階を踏んで改良されてきたものであり、本系列の機構でようやく完成の域に到達した。
この受信アンテナは第1・2次車では運転台寄りの1・2番目の冷房装置の間と、3・4番目の冷房装置の間に搭載されていたが、第3次車では冷房装置が障害物と見なされたのか、列車無線アンテナと1番目の冷房装置の間と、1・2番目の冷房装置の間に変更されている。
また、第3次車の3011Fの7連のみは1984年4月以降、ダイバーシティアンテナの試験車として電動車である3011・3012にもそれぞれ3500形に対応する位置に2基ずつ八木アンテナが搭載され、廃車までそのまま使用された。
なお、この3011Fと3009Fには新造時に松下製VTRが試験搭載されたが、これはスポーツ中継などのリアルタイム性の強い番組放送が好まれたことからほとんど使用される機会がなく、後に撤去されている。
近年では地上波アナログ放送全廃予定に対する地上波デジタル放送への対応に向けて、8000系において同対応受信設備への更新が順次進んでいるが、現在残存する3000系の置き換え予定が無い事から、同じ工事が実施されるものと思われる。
[編集] 譲渡車両
富山地方鉄道と大井川鐵道にそれぞれ先頭車両が譲渡され、2006年現在でも使用されている。ただし両社とも狭軌路線のため、実際には車体のみで、台車や主電動機は本系列と同様構造の狭軌用ダイレクトマウント台車を採用していた帝都高速度交通営団(現・東京地下鉄)3000系および5000系の廃車発生品を転用しており、大井川鐵道は営団5000系の住友金属FS-502A、富山地方鉄道が営団3000系の住友金属FS-336と三菱電機MB-3054(定格出力75kW)をそれぞれ使用した。ともにテレビは撤去され、ワンマン対応改造がなされている。
なお、公衆電話設置改造工事の施工車は改造の手間を省くため、組み込み編成の廃車時にも残存編成の未改造車と入れ替わりで極力最後まで残されたことと、運転台の復元に手間がかかるなどの理由で譲渡されなかったため、現存各車の旧番号は編成単位で一部不揃いとなっている。
富山地方鉄道へ譲渡された車両は主電動機出力を基準とする同社の形式命名規則に従い、10030形という形式を与えられ、しばらくは京阪時代の塗装で使用され、特急運転時には富山の観光ビデオ放送などにテレビが活用されていた。
当時、富山地方鉄道は自社の旧型車淘汰を目的として中古車を探しており、当初は同時期に廃車が進んでいた阪急電鉄2800系の車体を購入し、これを2扉クロスシート車に復元することを計画していた。ところが、車体は調達できても座席が調達できず、各所に手を尽くして座席探しに奔走する過程で出物として現れたのが本系列の座席であった。しかし、わざわざ3扉化された車体を購入して2扉車に復元するよりも、現役の2扉クロスシート車である本系列の車体をそのまま譲受した方が改造の手間が格段に少なくなるため、阪急2800系の車体を譲受するという当初の計画は放棄され、まず1990年8月20日付で除籍された3001Fの内、3001・3501の2両が譲渡された。
本系列のトップナンバーであるこれら2両は、それでも当時の富山地方鉄道在籍車の大半より車齢が若く、10030形第1編成として竣工後、実見した同社首脳陣がその車内設備の優秀さに驚いてすぐさま追加譲渡が決定したと伝えられている。
その後16両が出揃った10030系は同社オリジナルの黄色と緑の塗装に変更され、テレビも撤去されて2006年現在もこの塗装で運用されている。またワンマン改造を受け、日本鋼管NCBII密着自動連結器から密着連結器への再交換、スカートの取り外しも行われた。さらに台車については後半は同じ営団3000系発生品ながらSUミンデン式の住友金属FS-510へ変更され、一部編成についてはJRの485系特急電車の廃車発生品であるインダイレクトマウント式のDT32に交換され、これに伴い主電動機も定格出力120kWのMT54となって高出力化が実現している。
これに対し、大井川鐵道へ譲渡された2両はワンマン化されたが塗装は京阪時代のままで使用されている。ただしこちらも前面下部のスカートは撤去されている。
なお、秩父鉄道でも導入を計画していたが、所要両数が確保できずに断念し、代わりにJR東日本から165系電車を購入している。
[編集] その他
- 京阪では1970年まで工事資材運搬用の電動貨車に3000番台の形式が付けられており、3000番台の形式を名乗る車両としては本系列は2番目である。電動貨車は本系列の登場に備えて100番台の形式に改番された。
- 登場当時の鉄道趣味雑誌(「鉄道ジャーナル」1971年9月号)には、設計段階で検討された先頭案模型の写真が掲載されている。その中にはのちの小田急電鉄9000形に類似したものなど大胆なデザインもあったが、結局従来の京阪スタイルを踏襲したものに落ち着いた。
- 1972年度のブルーリボン賞の有力候補であったが、受賞した国鉄14系客車や次点の札幌市営地下鉄2000形電車に及ばず、受賞はならなかった。
[編集] 脚注
- ↑ バネ定数を特に柔らかく設定したシンドラー式台車(ウィングバネ式台車同様に軸バネが2列であるため、1列ごとのバネ定数は軸バネが1列のみの台車より柔らかく設定できる)やミンデンドイツ式台車(軸箱支持に用いられる板バネの特性の関係で、京阪線での使用に当たっては軸バネの定数を柔らかく設定せざるを得ない構造であった)を履き、乗り心地の良さで定評があった。
- ↑ 標準軌間向けとして同時代に存在した高速電車用モーターとしては、国鉄MT200(定格出力195kW。0系新幹線電車用)と三菱電機MB-3127-A(定格出力180kW(端子電圧750V時)あるいは144kW(端子電圧600V時)。近鉄の18200系以降12610系までの標準軌間線区向け特急車に採用)の2種がこれを上回るが、いずれも構造の単純な直流直巻式で、電車用の直流複巻式電動機ではこのTDK-8160-Aが2006年現在に至るまで日本最強のレコードホルダーである。
- ↑ ただし、編成として見た場合、特急車時代の1900系はMT比が37:8、つまり最低でも4M1T以上と電動車の比率が非常に高かったため、実質的な出力差はそこまで大きくはなかった。
- ↑ 対する1900系も、3000系との併結の可能性がある編成について、運転台寄り貫通幌を3000系と共通の成田式リコ型に交換している。
[編集] 関連項目
京阪電気鉄道の車両 |
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現用車両 |
京阪線 特急車:8000系,3000系 通勤車:10000系,9000系,7200系,7000系,6000系,5000系,2600系,2400系,2200系,1900系,1000系(3代) 鋼索線1・2号(2代) 京津線・石山坂本線:800系(2代),700形(3代),600形(3代) |
過去の車両 |
京阪線:1形,16号(貴賓車),100形,200形,300形(初代、初代1000形),500形(初代、旧1500形),600形(初代、旧1550形),700形(初代、旧1580形),1000系(2代),250形,1300系,1700系,1800系(初代、元特急用),1810系(元特急用),1650形,2000系(スーパーカー),600系(2代),700系(2代),1800系(2代),1・2号(初代) 鋼索線:1・2号(初代) 京津線・石山坂本線:20形,30形,50形,60形(びわこ号),70形,80形,800形(初代),260形,300形(2代),350形,500形(2代) |
京阪特急(1950年運行開始)・K特急(2003年運行開始)歴代使用車両 |
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特急車 |
☆印=現在京阪特急・K特急で運用されている車両。 |
定期特急・K特急に恒常的に充当された車両のみを記載(代走・臨時は除く)。 |