ポスト・ファーニホウ
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ポスト・ファーニホウとは、ファーニホウに続く作曲技法、作曲様式、並びに作曲家のことである。本稿では新しい複雑性が、流行になった以後の展開を扱う。
目次 |
[編集] ドイツの受容
ヒュープラーとマーンコプフは間違いなくポスト・ファーニホウだが、プラッツは依然として見解が分かれていることを断っておく。ヒュープラーとプラッツはクラーニヒシュタイン音楽賞の受賞者であり、早熟だったマーンコプフは「既に完成されており受賞する必要もない」ということで、26歳の若さでダルムシュタット夏期講習会の講師に抜擢された。
[編集] ヒュープラー
ポスト・ファーニホウで一番成功していたのは、1980年代当時、ミュンヘン出身のクラウス・K・ヒュープラーと言われ、ファーニホウの直弟子である。パラメータの分離に対する興味が人一倍強固で、「弦楽四重奏曲第三番『弁証法的幻想』(1982-84)」にて演奏する譜面を極度に合理的に、完全に独立したパラメータに別けて書く方法を考案した。しかしこのアイディアは非常にわかりやすい反面、演奏家にとっての読譜が極端に難しく、ヴァイオリン・ソロでも音高・強弱・音の長さ・音色などと最低4段の譜面を同時に読むため、事実上の演奏不可能の作品とされている。
本人は90年代に入ってから重い病気に侵され、作曲活動が困難になり新作の発表がほとんどできなくなったが、95年頃に完治した後はカムバックし、トレメディア音楽出版社から作品を出版しつづけている。演奏の困難さは相変わらずで、指揮者のシルヴェン・カンブルランは「ヴァニタス(2002)」を振ることが出来ずに、代役のハインツ・ホリガーに変わってもらった。
恐らくは、元来「ポスト・ファーニホウ」という分類はファーニホウの技法の延長線上を追求する人々を指していたはずであり、最もその原義に近い活動を行ったものがヒュープラーである。しかし楽壇の思惑通りに事は進まず、ポスト・ファーニホウとは彼からの影響を直で蒙る人々を指し始めた。
[編集] マーンコプフ
ヒュープラーが病気でリタイヤするのと入れ替わるようにクラウス・シュテファン・マーンコプフがいくつかの国際コンクールで地道に入賞を重ね、三度目のノミネートにてガウデアムス大賞に輝いた後はポスト・ファーニホウが世界的な認知を獲得し、多くの模倣者を生むこととなった。彼の創作歴はヒュープラーのようなパラメータ化を推し進める実験とは無縁で、専らファーニホウ的書法をいかに特殊な楽器法で彩色するか、といった問題に留まった。確かにその延長線上でピーター・ヴィールのようなオーボエ奏者とのコラボレーションのような実りこそあったものの、「ファーニホウそっくり」の譜面面はダルムシュタット講習会内部でも大きな議論を呼んだ。
[編集] プラッツ
もはやポスト・ファーニホウとは何ら関りを持っていなさそうに見えるロベルト・HP・プラッツは、複雑性についての文章を1990年に寄稿していることや、ヒュープラーの作品を指揮し、また彼のソロアルバムに推薦文を書き、この傾向と触れ合った前科を持つ。ポスト・セリエルの最優秀の嫡子と見られていた彼も、80年代後半からは「フォーム・ポリフォニー」と呼ばれる複数の作品の同時演奏を厳密にコントロールする作曲法を編み出した。一つ一つの作品の密度はそれほど複雑ではなくても、複数の作品を組み合わせることで、ポスト・ファーニホウに劣らないほどの聴取の困難性を提示することに成功している。複数の作品の同時演奏はそれほど新しい鉱脈ではなかったが、「作品同士の音組織の交換」や「組み合わせの対位法」という認識を示したのは彼だけである。ファーニホウの作品で多く見られる多重非合理音価を独奏者に無理に課さず、複数の作品に分担させたと解釈することもできる。複数の作品を長大な連作のように扱う傾向はリチャード・バーレットと共通する。
ドナウエッシンゲン音楽祭で初演されたANDERE RÄUME/nerv II/TURM/WEITER/Echo IIは五作品が自由にコラージュされ、一つの作品が他の作品のすかし模様のような働きを担うこともある。彼は「日本の伝統文化から多くのヒントを得た」ということである。なお、TURMの演奏時間は1.25秒であり、演奏可能な限り最大限の音符を詰め込んだ全一小節の作品である。
[編集] オーストリアの受容
オーストリアではヴォルフラム・シュリッヒただ一人がポスト・ファーニホウの書法を継承し、現在もコックスやマーンコプフとの共著を出版中である。
[編集] イギリスの受容
ジェイムズ・ディロン、クリス・デンク、リチャード・バーレット、ジェイムズ・クラークは全てイギリス人の作曲家のクラーニヒシュタイン音楽賞受賞者である。これに縁のない作曲家でもジェイムズ・アーバー、マーク・R・テイラー、ジョナサン・パウエル、アンドリュー・トゥヴィー、ジェイムズ・サンダース、サム・ハイデン、ポール・フィッティー等の作曲家もポスト・ファーニホウとして扱われた経歴を持つ。これ以外にも影響を直接受けた作曲家が多く、1980年代のファーニホウの作風はイギリスの音楽界を塗り替えていくほどの勢いがあった。しかし、当時の勢いを携えたまま21世紀に入っても質を維持している作曲家は少なく、ポスト・ファーニホウの限界を見切って転向するものも多い。イアン・ペイス、ニコラス・ハッジス、ジェイムズ・クラッパトン、マーク・クヌゥプ、ジョナサン・パウエル等の優れたピアニスト達が、これらの作曲家を支援したことも重要である。
[編集] アメリカの受容
ファーニホウはアメリカに移住した後、まずはカリフォルニアのサンディエゴで教えた。このことがサンディエゴ分校の校風を塗り替えるきっかけとなり、マーク・オズボーン、ハヤ・チェルノヴィン、フランク・コックスといった直弟子がこのスタイルの影響をまずこうむり、三人ともクラーニヒシュタイン音楽賞の受賞者である。直弟子以外でもアーロン・キャッシディー、エリック・ウルマン、ジェイソン・エッカルト、マイケル・エドガートンなどの作曲家は何らかの形でファーニホウのスタイルを参照した痕跡があり、これらの作曲家は自らの音楽が複雑であることを公に認めている。アメリカでは2005年にファーニホウの「発明の牢獄」の全曲のアメリカ初演が行われたことも手伝い、ポスト・ファーニホウはアメリカで公的な認知を得たと考えてよい。
[編集] イタリアの受容
ファニホウの直弟子のアレッサンドロ・メルキオーレを始めとするイタリアの戦後世代の作曲家は、ポスト・ファーニホウと呼ばれるスタイルの者はイギリスやアメリカほど見られない。確かにアルベルト・カプリオーリ、カルロ・アレッサンドロ・ランディーニ、フェルナンド・メンケリーニ、マリオ・ガルーティ、ジョルジョ・ネッティの楽譜の外観は時として驚く程複雑ではあるが、ポスト・ファーニホウであることを公に認めるものは恐らく一人もいないと思われる。ただ、時期的にはファーニホウがデビューして以後の展開であることは間違いなく、間接的な影響は認めざるを得ない。ファーニホウの「レンマ・アイコン・エピグラム」と「超絶技巧練習曲集」はヴェニスで世界初演されていることもあり、日本やロシアよりは受容が早い。
楽譜の外観はシンプルでも極限の速度に執着するエマニュエレ・カザーレの諸作品は、間違いなくファーニホウ以後の展開を咀嚼した上で成立している。
[編集] フランスの受容
クラーニヒシュタイン音楽賞の受賞者であるマルク・アンドレと受賞者のイザベル・ムンドリーをパートナーに持つブリス・ポゼの両氏はフランス出身でありながら、ドイツの音楽シーンに深く関った為、結果としてポスト・ファーニホウ的な複雑な書法を譲り受けることとなった。アンドレはヘルムート・ラッヘンマンにも師事し、フライブルク楽派のフランス版といって差し支えない。極度に宗教的な終末論的な曲や低音の醜さをクローズアップする曲が多く、いわゆるフランスのプロテスタントユグノー教徒であり、それ無くしては彼自身の音楽は成立し得ない。ブリス・ポゼの書法は「中世の技法を参照した」カノン的様相が特徴だが、ポゼの師のアラン・バンキャールからの影響を微分音の用法に見出すことができる。ポゼはバロック以前の音楽史に大変詳しく、卓越したハープシコード奏者でもある。
[編集] ロシアの受容
ロシアではこの作風からの直截な影響を受けた者は少ないが、中にはヴァディム・カラシコフのように極度に難解な楽譜を書くことに専念する者もいる。
[編集] 日本の受容
90年代、ポスト・ファーニホウ達の成果が日本に伝えられると、当然の結果なのか多数の影響例をこの国に見出すことが可能になった。「世界的に1990年代がポスト・ファーニホウの流行した時代だ」と事実誤認した日本人の評論家もいたくらいである。このことは日本人のファーニホウ理解が、かなり世界の標準から逸れていた事を明白にするエピソードである。
福井とも子の弦楽四重奏曲第四番は、彼女の創作歴の中でもファーニホウやヒュープラーの影響が吐露された唯一の例外かも知れないが、最終的に全ての楽器が一致に向かう点は驚くほど伝統的であり、これはヒュープラーが目指した伝統的な構成感の破棄とは結びつかない。川島素晴は「夢の構造第二番」では第二期のファーニホウを参照しているが、ファーニホウの書法の欠陥を客観的に彼が指摘できるようになってからは、「演奏行為の連結」といった別路線の鉱脈へ関心を移す。山口淳の一時期の作品も似たような複雑性に充ちていたが、音の余韻を聞き込む態度に執心してからはこの路線とは袂を別つ。
第三世代からやや遠く離れた1983年生まれの木山光はジャングルやテクノなどのリズム感をファーニホウ的書法とブレンドし、極度に演奏の困難なピアノ作品を書いた。この音像は初代秋吉台世代では、導くことが出来なかった。
[編集] 韓国の受容
近年の韓国人の若手も「ファーニホウの影響下の模倣に終始する者がいて、大変残念だ」とヨンギー・パク・パーンがコメントしていた。数年ほど前に「ブライアン」というピアノ組曲を作曲したファーニホウの直弟子がいることが、延世大学のwebで確認できる。そのほか現在ドイツ在住のクンス・シムもシュトットガルトのラッヘンマンに弟子入りする前の作品に独自の超ファーニホウ様式を作曲していたが、エッセンに移り友人ゲルハルト・シュテーブラーと一緒に生活するに従って、ヴァンデルヴァイザー楽派に加入し、ケージやフェルドマンの傾向を加味した「ポスト・ヴァンデルヴァイザー」と呼べる様式に移ってきた。
[編集] 追記
これらは数多かったポスト・ファーニホウの氷山の一角に過ぎない。ここまで読んだ者は、クラーニヒシュタイン音楽賞という単語が頻出することにうんざりした人もいるだろう。つまりポスト・ファー二ホウは、ダルムシュタット夏期講習会の存在抜きには語れない流行の一つだったのだ。