ブライアン・ファーニホウ
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ブライアン・ファーニホウ(Brian Ferneyhough, 1943年1月16日 - )はイギリスの現代音楽の作曲家。
目次 |
[編集] 略歴
ウェストミッドランズ州の工業都市、コベントリー(Coventry)に生まれた。ブラスバンドから音楽に入るがやがてこれを退け、バーミンガム音楽院(1961年 - 1963年)で正式な音楽教育を受けた後、ロンドンの英国王立音楽院(1966年 - 1967年)でレノックス・バークリーに作曲を師事した。
1968年、メンデルスゾーン奨学金(the Mendelssohn Scholarship)を授与されたファーニホウは、ヨーロッパ本土へと赴き、アムステルダムにてトン・デ・レーウ(Ton de Leeuw)、翌年にはバーゼルにてクラウス・フーバー(Klaus Huber)に作曲を学んだ。1970年代から1980年代にかけてフライブルク音楽大学で、細川俊夫やたかの舞俐を教え、1988年にカリフォルニア大学サンディエゴ分校の招きで渡米し、ハヤ・チェルノヴィン、伊藤弘之を始めとする多くの弟子をそこで育てた後、2004年現在の彼はスタンフォード大学に於てWilliam H. Bonsall音楽教授として作曲の教鞭を執っている。
[編集] 作風
現在のファーニホウを決定付けた要因は、1973年以降「生成的」な作曲手法を拒絶し、物質的及び形式的制約を作り出すためのシステムを好んで用いるに到った事による。一見、そのシステムはより自発的な具現手段に見えるかもしれない。しかし形式に傾倒する他の作曲家と異なり、ファーニホウは自身の音楽について「エネルギーを生み出す源」、「抽象的スキーマの具象化を凌ぐ興奮」と言及している(1980年代の発言)。彼の衒学的な言葉使いは難解だが、その中でも一番わかりやすい説明は「素材を変奏するのではなく、変奏技法そのものが変奏されること」であろう。
[編集] 第一期(1966-1972)
ファーニホウは、トータル・セリーを始めとする形式化の潮流の延長上に位置する新しい複雑性に深く関与している。だがファーニホウの実際の作曲姿勢はミュジックセリエルの影響下から作風を始めた。ガウデアムス音楽週間内若手作曲家対象国際コンクールで発表された「弦楽四重奏のためのソナタス」、「エピサイクル」はその当時の作品である。長大なドローンの上で細かい音かが犇いたり、不安定なパルスを用いる特徴はこの頃から既にある。非合理時価を一重にしただけでは、生成できる構造の複雑性に限界があることがわかり、1972年に作曲活動を一時中断していた。第一期の語法は複数の指揮者を用いたポリテンポや、一定楽句の反復など多数の様式混在が見られる。
この時期には消極的に調性的なパッセージが現れるが、「トータルにランダムな音事象」では偶発的に三和音を含む見解に基づいており、下手な調性への回帰ではない。しかしながら、「カサンドラの夢の歌」に現れる急速な装飾音は、ロマン派の超絶技巧を強く想起させるのもまた事実である。
[編集] 第二期(1973-1991)
ファーニホウの楽譜の演奏者に対する技術的要求は、バス・クラリネット独奏の為の「時間と運動の為の習作 第一番」より苛烈を極めてくる。
フルート独奏の為の「ユニティ・カプセル」においては、余りに過剰なパラメータ操作を要求するが為に、完全な実現が事実上不可能な箇所が生み出される。「ファーニホウは単に全ての詳細な事物で楽譜を埋め尽くし、現実的可能性を低下させることを試みているに過ぎない」という一般に蔓延る固定観念とは裏腹に、ここでの目的は、どの角度に焦点を当て、どの要素に省略等の処理を施すかの決定を演奏者に委ねるという、独創的自由を与えることにある。(これらは1970年代当時の見解である。21世紀に入った今では木ノ脇道元のように、ほぼ完璧に近い演奏を行うフルーティストが現れた現在では、若干事情が異なる。)
ファーニホウ自身も認めているように、練習に要する多大な労力と、即興によって類似した効果が得られる事の認識が、幾多の演奏家が彼の作品をレパートリーに加えることを拒絶していた理由であった。1980年代初頭は、これらの理由から逆にマッシミリアーノ・ダメリーニやロベルト・ファブリッツィアーニのような好事家が現れ、彼の楽譜を一ヶ月以内で弾きこなす猛者も現れることとなった。こうして、ファーニホウはカルト的な人気を徐々に高めていった。
作曲に数年を要したピラネジの絵画に基づく連作「発明の牢獄」は「牢獄I」、「超描写」、「牢獄IIa」、「シャコンヌ風間奏曲」、「超絶技巧練習曲集」、「牢獄III」、「ムネモシン」の七曲からなる連作であり、「牢獄I」や「牢獄IIa」では室内アンサンブルの超絶技巧の限界に挑むシーンが多々見られ、鬼気迫る音響が聴かれる。この連作でファーニホウは作曲家としての名声を決定的にし、「20世紀の最も優れたイギリス人の作曲家」という評価が確立する。
第二期最大の発明は極端に非合理リズムを複数段の五線譜に分けて書く記譜法であり、視覚的にも大変合理的である。この記譜法が「大地」、「ムネモシン」で使われている。後日ほとんど使われなくなったものの、この記譜法の経験が第三期の書法に反映している。
[編集] 第三期 (1992-
輝かしい第二期の頂点に位置する「対位の監獄」完成後、世界中の若手作曲家が彼のイディオムに魅せられた。このあたりから、彼のトレードマークになっていた特殊奏法のパラメータ表記を徐々に削り、コンピュータ環境下で作動する作曲システムと古典的構成感という、一見「新しい複雑性」と相反するかのような要素が1988年ごろから見え隠れする。「イカロスの墜落」では例外を除きクラリネット独奏パートにほとんど特殊奏法表記が見られない。「代数学」では以前の彼では考えられないくらいに反復リズム細胞が弦楽パートに頻出する。
これは委嘱ペースの上昇に答えなければならない事情だけではなく、彼本来の嗜好がより顕著化したものと見るべきである。年とともに響きは透明感を増してきたが、「オプス・コントラ・ナトュラム」では音域別ではなくシステム別に譜表をあてがう為に、ピアニストにとっては全く未知のリズム語法を習得しなければならない困難が横たわる。「何かしらの困難」と戦う姿勢が、ファーニホウの作曲語法そのものである。
前述の「オプス・コントラ・ナトュラム」を含むオペラ「影の時」は完成し、ドイツ、アメリカ、イギリスで演奏された。(スウェーデンでは抜粋版のみ。)第二期の様式よりも困難度が上がった割には、全体的には音響のスリムさと聴き易さが目立ち、叙情的な声楽書法も特に際立った発明は見られない。
この頃に入ると既にファーニホウの影響が国際的な規模で拡大し、カルト的な雰囲気は払拭されている。アメリカの風土の影響なのか、確実性が優先されるようになり、第二期ほどのインパクトは感じられないという意見も多い。それでも作風が進化するのに伴い、演奏の難易度は上がりつづけており、現在も彼の語法が何処まで複雑化するのか常人には全く検討がつかない。
[編集] 近況
現在ではアルディッティ四重奏団(Arditti quartet)やニェーウ・アンサンブル(Nieuw Ensemble)、アンサンブル・コントルシャンらの受容からアンサンブル・ソスペソ、アンサンブル21といった後発の楽団まで、多数の支持者を魅了し続けている。今ではフルート国際コンクールの定番レパートリーとなるなど、すでに異端扱いのかけらもない。
彼の最新作の一つである、ドイツの哲学者ヴァルター・ベンヤミンの生涯を描いたオペラ、「影の時」は2004年5月25日にミュンヘンで初演された。2005年にはアンサンブル21ほかのメンバーで「発明の監獄」全曲演奏がミラー・シアトレで行われた。2006年現在は三年前から入ったドナウエッシンゲン現代音楽祭の為にオーケストラの委嘱新作「突然性」を発表した。待望の「弦楽四重奏曲第五番」も2006年に初演された。
[編集] 関連項目
[編集] エピソード
- かつては「音符の多い作曲家だ」という過少評価もヨーロッパ本土ですら珍しくなく、評価が確立するのはダルムシュタット夏期講習会で教鞭をとり、多くのフォロワーに迎えられた後のことであった。
- 生涯に四回結婚している。