四天王 (プロレス)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
プロレスにおける四天王(してんのう)とは、かつての全日本プロレスに入門しジャイアント馬場の愛弟子であった4人のプロレスラー、三沢光晴(現・プロレスリング・ノア社長兼レスラー)、川田利明(現・フリーランス)、田上明(現・ノア所属レスラー)、小橋建太(同前)を指す。この四天王に秋山準を加えた5人は五強と呼ばれ、彼らは「馬場の遺産」とも時に呼ばれる。
[編集] 概要
成立過程としては、1980年代後半の馬場の第一線からの撤退、1990年の天龍源一郎らの退団によりピンチとなった全日本プロレスが、リング上の攻防の激しさを売りにしたことから始まっている。当初はエースであるジャンボ鶴田やスタン・ハンセンが、彼らの厚き壁となっていたが、鶴田の長期療養によりスター不在となり、超世代軍を中心とした若手世代同士をメーンエベントで戦わせる、全日本では新しい試みとなった(それまでは馬場のプロモーターとしての優れた働きから、「日本人vs外国人」の図式がメーンであった)。
カウント2.9連続の攻防、ハードヒットする打撃、脳天直下式投げ技の多用等の試合形式は、従来のプロレス手法を覆すものであり、日本武道館を初めとする首都圏でのビッグマッチは多くの熱狂的ファンで超満員となった。彼らの活躍やファイトスタイルは話題を呼び、全日本が最も繁栄・全盛となった時期であると言われる(1990年代中盤から、武道館大会を年間8シリーズ中7回開催するようになったが、毎回超満員の観客が詰め掛けていた)。また、そのスタイルは、四天王プロレスと称され、プロレス界全般にも多大な影響を与えた。タフマンコンテスト、グラウンドレスリングの欠如、技のインフレ・過激化、焼き畑農業等の批判も、特に他団体関係者から定期的に出てくる。その過剰な攻防のエスカレートを危惧し、安易に四天王プロレスを賛美する観衆、そして安易に四天王プロレスの真似事をする他団体をいさめる論評も散見された(他団体で複数の死者が出てくる時期にあたる)。脳天から叩き落とす危険な技の応酬のスタートは93年のスティーブ・ウィリアムスの小橋との三冠挑戦者決定戦での殺人バックドロップがきっかけである。あの殺人バックドロップがなければ、全日本のスタイルは微妙に変わっていたかもしれない
レスラーとしてのタイプはそれぞれ異なるが、所属組織が分断されてしまった現在も、馬場の「王道プロレス」「純プロレス」の部分はそれぞれに継承されている。分裂以降のノアでは、全日に残留した川田の代わりに、かつて「五強」と呼ばれた秋山準がこの地位に昇っていると考えられる。また、ノア旗揚げ後は低迷していた田上が2005年にGHCヘビー級王座を獲得するまで、三沢、小橋、秋山に高山善廣を加えて新四天王とする向きも一部であった。
存在的には、アントニオ猪木の愛弟子であった新日本プロレスの闘魂三銃士に相当し、馬場と猪木が袂を分かった後に「馬場vs猪木」の対戦が実現しなかったことからも、プロレスファンからは双方間によるより多くの対戦が待ち望まれた。
対決は、(1)川田については、蝶野正洋とのタッグ戦が2000年に、シングル戦が2005年に、武藤敬司との多くのシングル戦及びタッグ戦が2001年以降に、橋本真也とのタッグ戦が2003年に、シングル戦が2004年に実現、(2)三沢については、橋本とのタッグ戦が2001年に、蝶野とのシングル戦が2002年に、武藤とのタッグ戦が2004年に実現、(3)田上については、蝶野とのタッグ戦が2003年に実現、(4)小橋については、蝶野とのタッグ戦及びシングル戦が2003年に実現している。
92年に鶴田が肝炎で戦線離脱し、この4人が全日のエースになり四天王と呼ばれるようになって以降、この4人をシングルですべて倒した日本人選手は未だ一人もいない。秋山準は川田に勝てば達成となるが、川田はノアに出入り禁止状態となっているため、現在のところ対戦は難しいものと思われる。
[編集] 関連項目
カテゴリ: 名数 | 全日本プロレス | プロレスリング・ノア