タクシン・チナワット
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
警察中佐タクシン・シナワット首相(Pol. Lt. Col. Thaksin Shinawatra, Prime Minister、พ.ต.ท. ทักษิณ ชินวัตร นายกฯ、華語名:丘達新 1949年7月26日 - )は第31代タイ王国首相であり、元警察官僚及び実業家である。チエンマイ県の出身。客家(はっか)系の華人でありチエンマイの名家、チナワット家出身。「タクシン」の綴りは ทักษิณ であり、トンブリー王朝の「タークシン(ตากสิน)」と違うので、注意する必要がある。あだ名はメーオ(モン族の意。)と言う。
目次 |
[編集] 背景
[編集] 警察官時代
タクシン自身はタイ警察士官学校を卒業し1973年(タイ仏歴2516年)タイ王立警察部に仕官する。そのときの階級は「警察少尉」で、国境警備隊に所属していた。彼の勤勉な性格から、半年後局内でアメリカ留学の機会を得て渡米。イースタン・ケンタッキー大学で刑事司法修士をわずか4ヶ月で終え帰国。1976年(タイ仏歴2519年)には、帰国後にはポッチャマーンという女性と結婚し、同年再び渡米。1978年(タイ仏歴2521年)、サム・ヒューストン州立大学で刑事司法博士(doctor of criminal justice)を取得して首都警察参謀局政策企画副局代理顧問の地位に就いた。このころに警察官としての彼の階級は「警察中佐」で、今でも名前に冠して名乗っている。しかしタイの警察の仕事は非常に給料が低く、そのころの彼の月給は3000バーツ(日本円約9000円)であったとも言われる。そのため彼は以前から副職を持っていた。
[編集] 企業家時代
副職としてまずシルク販売を行った。この他、移動映画などの事業を行い、巨額の富を稼ぎ出した。しかし、この次は不動産会社を設立し、コンドミニアム販売に失敗。彼の企業は一挙に5000万バーツ(日本円で約1億5000万円)の負債を抱え込んだ。
事態打開のために今度は警察向けにコンピュータを貸し出すサービスを開始するが、バーツ切り下げによって、さらなる赤字を生み出し2億バーツ(日本円で6億円)とも言われる赤字を生み出した。
その後タクシンは数々の企業に手を出すがどれも大した業績を上げることがなかった。
ある時タクシンは携帯電話サービスの営業権を政府から獲得してAISという携帯電話会社を立ち上げた。この企業は成功を収め、タイでの携帯電話の普及に伴って黒字を拡大し、タイを代表するコミュニケーション会社となった。今ではタクシン家はタイ国一の富豪と言われる。この後、1987年(タイ仏歴2530年)、警察を辞職し、シナワトラ・コンピューター・アンド・コミュニケーションズ社(注:英語直訳、現シン・コーポレーション社)を設立し、警察時代のコネクションを生かして警察機関にコンピュータの貸し出しを行った。
[編集] 政治家時代
タクシンは1994年(タイ仏歴2537年)パランタム党に入党し、政治活動を始めた。その後外務大臣に任命されるが、タイの憲法では大企業の株主は大臣になれないため辞職した。そのため、株の名義を妻や、自分の運転手名義に書き換え(後に所得隠しとの批判を受ける)、関連会社の名前に「チナワット」とあるのをすべて「シン」と書き変えた。しかし、パランタム党はこの後1997年(タイ仏歴2541年)内部崩壊したため、翌年タクシンは、タイ愛国党を創設し、2001年(タイ仏歴2544年)政権に就いた。
[編集] 辞任要求デモと退陣
2006年1月、タクシン一族はシン・コーポレーションをシンガポールの会社に733億バーツで売却した。この売却益に対する課税が節税工作により2500万バーツにすぎなかったため批判を浴びた。タクシンは国民の信を問うために2月24日に下院を解散した。3月になりバンコクで退陣を求めるデモが活発化した。4月2日に総選挙が行われたが野党はボイコットし、白票が相次いだ。与党が勝利したものの、400選挙区中39選挙区で有効票が規定に達しなかったため再選挙が決定した。
日本時間2006年4月4日午後11時に国王に退陣を表明、次期首相が決まるまで休養に入った。当面の間、首相の職務はチッチャイ・ワンナサティット副首相が代行することとなった。しかし、実際には暫定首相としてタクシン首相が職務を行い国民からの反発を招き、2006年9月19日のクーデターに繋がった。翌20日、滞在していたニューヨークからロンドンに移動したが、事実上の亡命とみられる。
[編集] 政策
[編集] 主な政策
タクシンの政策は以下のように清潔で、低所得者よりの政治を見せる一方で、経済政策は大胆である。
- 風俗店の取り締まりや、ナイト・スポットの深夜営業禁止政策
- 麻薬取り締まり強化
- 健康保険制度の整備や30バーツ医療
- 一村一製品運動
- 公的資金を大量に投入する経済政策タクシノミックス(Thaksinomics)
- アメリカに対しては友好的な態度をとるが、アメリカの内政干渉的な言動に対しては断固抗議
このような政策は、全体的に特に経済政策を中心に評価されている。事実、タイの経済は現在好景気である。タクシンの人気が高いのは、地方の有力者を掌握しているからだけでなく、このような経済政策が功を奏しているからでもある。このような30バーツ医療などに代表される貧困層寄りの政策からタクシンは実際は左派であると言われる。
外交ではかつてなかった程中国寄りだった為、タイ愛国党北京支部の開設も許可された。
タクシンは政治の基盤固めも着実で、反対勢力となりうる軍や警察の最高ポストに親族を配置し、強引にマスコミを統制している。このような手法はタクシンがマレーシアのマハティールあるいはシンガポールのリー・クワンユーのような政治を理想とするからだと言われている。また、地方の基盤固めに旧共産党関係者の協力を仰ぎ、元共産党員を側近に持つなど歴代政権に比べイデオロギー色が薄く、柔軟性が見られる。
しかしながら逆に以下の問題も指摘されている。
[編集] 麻薬一掃作戦
タクシンは2003年(タイ仏暦2546年)に麻薬一掃作戦として、軍隊・警察を導入し、政府が作成したブラックリストを元に、リストアップされた人物を強制逮捕・処刑した。しかし、そのブラックリストには無罪の人物も含まれており、政府もこれを認めている。中には無罪証明をもらっているにもかかわらず狙撃され、一家は事実上社会的に追放されたと言うケースもあった。しかしこれに対してなされた対策はほぼ皆無である。この作戦で死んだ人は公式発表では、民間人2,500人以上、軍あるいは警察の殉職者は25人。逮捕者は9万人に上った。この政策ではタイから輸出される麻薬に頭を悩ませていたアメリカ政府の支持を大いに得たが、逆にその他の国々からの評価は人権的観点から下がった。一部マスメディアでは「アメリカの歓心を買う人権侵害」や「タクシンおよびブラックリスト作成者の反対勢力一掃作戦」と批判された。ちなみに、逮捕者のうち、大物人物が相次いで無罪釈放されている。
[編集] 不正献金・所得隠し疑惑
タクシンは彼の会社から不正献金を受け取ったとされる話があり、すでに最高裁判所で無罪判決が出ているが、今でも外国のメディアでは騒がれている。また、パランタム党時代に憲法違反を指摘され外相を退いたとき、政界復帰するため株の名義を妻のポッチャマーンなどに名義変更したが、閣僚資産報告書や、証券取引所には届け出がなく、NNNC(汚職防止委員会)から訴えられるが、「所得隠しが意図的かどうかが不明」として憲法裁判所では退けられた。この後、ポッチャマーンは証券取引所から「名義変更届けをださなかった」とのかどで630万バーツ(日本円で約1890万円)を罰金として支払った。
[編集] 南部イスラーム問題
タクシン政権樹立後、今まで息をひそめていた深南部三県のイスラームの過激派テロ組織が急激に活発化した。タクシンはそれまで、開発を行って深南部三県へタイへの同化を迫り、また、アルカイダやジェマ・イスラミアのメンバーを拘束したり、と強権的な政策により、アメリカの支持を得た一方で地元マレー系住民(ムスリム)からの反発も大きい。2004年(タイ仏暦2547年)4月には警察との武力対立も発生し、100人以上の「武装勢力」が死んだ。しかし、タクシンの娘の裏入学疑惑が取りざたされた時、タクシンが「娘が泣いていた。彼女は何も知らない。娘を傷つけないでくれ。」と語り報道陣に涙を見せた数日後の出来事だっただけに、大半の国内マスメディアが批判した。
[編集] マスコミ統制
また、強力なマスコミ統制も内外の批判を浴びた。反政府系新聞ネーション・マルチメディア・グループの社長の自宅が家宅捜索され、タクシンと王室の関係をスキャンダラスに書いた香港の新聞社と記者をタイ国から永久追放した。唯一非政府系のチャンネルと言われていたiTVもタクシンのシン・コーポレーション・グループの子会社とするなどした。これらにより国際的なマスコミ格付け機関から、「報道の自由な国」から「報道の不自由な国」に格を下げられた。
[編集] 非常事態宣言(2005年7月)
2005年7月19日、タイ政府は、銃撃や爆破事件などのテロが続いた同国南部のナラティワート、ヤラ、パッターニ3県全域とソンクラー県の4地区に対し、タクシンが非常事態を宣言することを承認。同日、非常事態宣言を発令した。
これを受け、タクシンは「逮捕状なしの身柄拘束や出頭命令」、「武器の取引制限や没収」、「混乱につながる集会の禁止や電話などの通信傍受」、「治安に影響を与える報道の禁止」、「問題がある外国人の国外退去命令」などを治安当局に命じる非常大権を手にし、強硬姿勢で治安対策に当たることが可能となった。ただし、これらの措置が基本的人権の制約を伴うため、マスメディアやジャーナリスト協会、人権団体から批判が続出した。
[編集] 非常事態宣言(2006年9月)
2006年9月19日午後10時(タイ時刻)、国連総会出席のためアメリカのニューヨークに滞在中に非常事態宣言を出した。ソンティを筆頭とする陸軍に、クーデターの動きがあったことを察知したと見られている。この非常事態宣言の直後、軍事クーデターが起こった。
ソンティ司令官側のスポークスマンは、タクシンによる非常事態宣言は無効にし、戒厳令、憲法を無効にすること等の布告・声明を発表し、後に2006年9月20日夕刻に、プミポン国王がソンティ司令官の行政改革団の暫定首班就任を承認したことにより、タクシン政権の崩壊と非常事態宣言の無効が確定した。
[編集] 関連項目
- タイの実質上の元首
- 2001年2月9日 - 2006年9月19日
-
- 先代:
- チュワン・リークパイ
- 次代:
- ソンティ・ブンヤラガリン